連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・後 池永 陽 You Ikenaga

 しばらくして、ようやくわかった。
 敏之と夏希は無言で話をしているのだ。
 涙を流しながら、意思の疎通を図っているのだ。麟太郎には思いもよらぬことだが、二人は言葉を交さずに何かを話している。そうとしか考えられなかった。麟太郎の胸に、途方もない羨しさが湧きおこった。
 二人の目は涙に濡れていた。
 泣きながら二人は無言で見つめ合っていた。
 半分、死んだも同然という敏之と夏希が。
 睨み合いは十五分ほどもつづき、ふいに終りを迎えた。
 敏之の体から力が抜け、両肩がすとんと落ちた。同時に夏希の体からも力が抜けて両肩が落ちた。
「麟ちゃん、疲れたから、そろそろ、おいとましようか」
 いつもの声で敏之がいった。
「そりゃあ、疲れもするわよ。あれだけ真剣に、にらめっこをすれば。いくら、私の顔が綺麗だからといって、あれは見すぎ。でもこれで、私の顔は敏之さんの脳に焼きついてしまったんじゃないの。その逆もいえるけどね」
 おどけた調子で夏希がいって、その夜はおひらきになった。

 敏之を家に送り、診療所に戻ってみると麻世がまだ起きていて、居間でテレビを見ていた。同じようにソファーに腰をおろし、麟太郎は今夜の敏之と夏希のあれこれを麻世に話してみた。
「私たちにも、そういうことはよくあったよ」
 麻世が、すぐにこんなことをいった。
 道場で木刀を持って相手と対峙したとき、互いにどう攻撃していいかわからなくなり、膠着(こうちゃく)状態になったときの状況に似ていると麻世はいった。
「竹刀と違って木刀同士だと、ぽんぽん打ち合うことはできないから。打たれれば骨が折れるかもしれないし、肉が裂かれるかもしれない。だから真剣同様、慎重になるんだけど。そんなときは互いに木刀を構えながら、心のなかで相手との話し合いになるんだ」
 麻世のこの言葉に、
「腹の探り合いじゃなくて、話し合いなのか」
 麟太郎は首を傾げて訊く。
「木刀同士の命がけの立合いだから、腹の探り合いなんていう姑息なまねは通用しない。これはあくまでも話し合い――」
「話し合いって、いったいどうしようというつもりなんだ」
「こういうときは、ほとんど同じ力量の者同士だから、どういう手段を用いて引き分けにするかという」
「引き分け――」
 素頓狂な声をあげる麟太郎に、
「こんな膠着状態になったときは、相手を倒してやろうという気はなくなってしまっているから、引き分けでいいんだ。詳しい理(ことわり)を話すと長くなるからいわないけど、それが古武道の極意だともいわれている。針ヶ谷夕雲(はりがやせきうん)という剣客があみ出した、無住心(むじゅうしん)剣術という流派では、これを相抜けといって剣の奥儀にしているよ」



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)