連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・後 池永 陽 You Ikenaga

 柳剛流(りゅうごうりゅう)剣術の腕達者といわれる麻世は、すらすらと答えるが、
「相抜けなあ……」
 スポーツとしての柔道しか知らない麟太郎には、そこのところがよくわからない。が、あのとき、敏之と夏希は互いに心を通わせ合っていたことは確かだと思った。羨しくなるほど確かだった。
「あのおばさんも、いろいろ苦労をしてきたんだね」
 そのとき、麻世がぽつりといった。
「そうだな。それだけは、わかってやらねえとな。麻世のように、目の敵(かたき)にばかりしないでな」
 しんみりした調子でいうと、
「うん。悪かったと思ってる。あんまりしつっこいから悪く見てたけど、あのおばさんのいろいろがわかったような気がするよ」
 これも、しんみりした口調で麻世が答えた。
「ひょっとしたら、その麻世の心変りも相抜けという境地と同じようなものなのか」
 思わずこういうと、
「そうかもしれない」
 珍しく、素直な言葉が返ってきた。

 十日ほどが経った土曜日の午後。
 今日は非番だといって、潤一がやってきた。
 敏之の様子をあれこれ訊く潤一に、あの夜の夏希との一件を麟太郎は話してやる。
「へえっ、夏希さんにデートを申しこんだんですか。それは凄い。実に凄い」
 嬉しそうにいう潤一に、
「そのあとは相抜けだよ」
 と麻世が武術のあれこれを説明するが、むろん潤一にわかるはずはない。困ったような顔をしている潤一に、
「おじさんは、やっぱり医者になってよかったと思う。勉強はできるんだろうけど、それだけ頭が固いと」
 さじを投げたように麻世がいう。
「いや、それは違うと思うよ、麻世ちゃん。俺は頭が固いんじゃなくて、世智にうといだけで――」
 と反論を始めたところで電話のベルが鳴って、麻世が出る。すぐに「水道屋さんの奥さんから」といって受話器を麟太郎にわたす。
 話をしていた麟太郎の顔色が変った。しばらくして電話を切り、
「おい、敏之がいなくなった。十二時頃家を出て、いまだにまだ戻らないそうだ。ケータイに電話をしても電源を切っているようでつながらないらしいし」
 古い柱時計に目をやると、すでに三時を回っている。
「容体のほうは、どうなんですか」
 潤一の顔つきも変っている。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)