連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・後 池永 陽 You Ikenaga

「昨日、腹水ドレナージをしているから、体のほうは比較的楽なはずだ。それに、文子さんの話では、今日は気分がいいから、久しぶりにゆるゆると遠出をしてくる。ひょっとしたら遅くなるかもしれないけど心配はいらない。何かあったらケータイで電話するといって、上機嫌で出ていったそうだ」
「いくら、上機嫌だからといって」
 潤一は怒鳴るようにいい、
「俺はとにかく大学のほうに帰り、万が一の状況に備えて待機しています。こちらのほうは親父にまかせるから、何かあったらすぐに電話を――」
 返事も聞かずに、真剣な表情で潤一は居間を飛び出していった。
「あのおじさん。頭は固いけど、医者の腕のほうは本物のようだね」
 ぽつりと麻世はいってから、突然「あっ」という叫び声をあげた。
「じいさん。ひょっとしたら、あの相抜けじゃないのか。隣の夏希さんと二人で」
 いつのまにか呼び方が、おばさんから夏希さんに変っているのはいいとしても、あの敏之がそんなことを。麟太郎の胸が、ざわっと騒いだ。
「麻世っ。隣に行って店が開いてるかどうか、見てこい」
 麻世が居間を飛び出していき、すぐに戻ってきた。
「閉まってる。鍵がかかっていて扉は開かない」
 嬉しそうに麻世はいうが、麟太郎の胸には敏之に対する嫉妬のようなものが湧きおこる。
『田園』の休日は日曜日で土曜日ではない。となると今日は臨時休業――二人で示し合せてどこかへ行ったということも。おそらくは、この前夏希に話していた、浅草『花やしき』だ。
 とりあえず、まず文子に連絡を入れなければと麟太郎は受話器を手にして敏之の家の番号をプッシュする。文子はすぐに出た。
 敏之の行き先は大体わかっているので、心配はしないようにと明るく文子にいい、麟太郎は苦虫を噛(か)みつぶしたような顔で電話を切る。
「じいさん、どうした。顔色が悪いぞ」
 面白そうに麻世がいう。
「人騒がせな敏之の野郎のことを考えたら、ちょっと腹が立ってきてな」
 ひとつ空咳をしてから、
「どうだ、麻世。二人で花やしきに行ってみるか。二人がどんなデートをしているか、見てみるのも面白いかもしれん」
 何とか顔を元に戻していった。
「うん、行こう、行こう。いろんな意味で見物(みもの)かもしれない」
 すぐに麻世が賛同した。
『花やしき』までは、一キロほどの道のりだ。二十分後、麟太郎と麻世は、遊園地のなかで辺りを見回し、敏之と夏希の姿を探していた。
 狭い遊園地なのですぐに探しあてられると思ったが、なかなか見つからない。妙だった。土曜日のことなので人も多かったが、探すのに苦労をするほどの人出ではない。隅から隅まで二人で歩き回ってみたものの、二人の姿はまったく見あたらない。
 念のため、切符売場の女性に二人の風体をいって確かめてみるが、よくわからないと首を傾げるだけだった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)