連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・後 池永 陽 You Ikenaga

 麟太郎は園内を上から見るために、階段を上がって、ジェットコースターの乗場に行く。そこから下を見回すが、二人の姿はどこにもない。奇妙だった。まるで狐につままれたような気持だった。
 そのとき麟太郎の視線が園内からそれて、外に向かった。麟太郎の目がそれを捉えた。遊園地の裏手に建つ、ラブホテル群だ。嫌な胸騒ぎを麟太郎は覚えた。
 夏希は敏之のことを似た者同士だといった最前線の戦友のようなものだともいった。そして涙を流しながらの、あの無言の会話だ。意気投合して、二人でラブホテルにしけこんだとしても不思議ではなかった。
 ラブホテルを眺める麟太郎の脳裏に、裸でからみ合う二人の姿が浮んだ。夏希は右の乳房をなくして、男の前で裸になることができないといっていたが、相手が似た者同士の敏之なら……。
 麟太郎は奥歯を噛みしめた。
「相抜けじゃなくて、これなら逢い引きじゃねえか」
 こんな言葉がぽろりと出た。
 とたんに妙におかしくなって、苦笑がもれた。苦笑は段々と大きくなり、やがて麟太郎は顔を崩して笑っていた。脳裏に浮ぶ裸の二人の姿からは卑猥さが消え、温かさのようなものを感じた。
「二人とも、今まで一生懸命生きてきたんだからよ。それぐらいのことはよ」
 口に出して呟いた。
 とたんに体中から力が抜けて楽になった。
 麻世が階段を上がってきた。
「どうやら二人は別の場所に行ったらしい。どこかの喫茶店でコーヒーでも飲んで、甘いものでも食ってるんだろう。莫迦らしいから帰るとするか」
 麟太郎は階段を下り始める。
「えっ、せっかくきたのに何も乗らずに帰るのか」
 唇を尖らせる麻世に、帰りに葛餅(くずもち)でも食わせてやるからといって、麟太郎は出口に向かった。はたしてあの体で、アレができるもんだろうかと余計な心配を胸に……。

 この失踪事件――敏之がちょっと疲れた様子で家に帰ってきたのは、六時頃だったという。
「この世の名残りに浅草界隈の喫茶店を回って、コーヒーの飲み較べをしていた」
 これが敏之のいいわけだった。
 夜になって店を開けた『田園』に早速麟太郎が押しかけると、夏希は愛想よく笑顔で迎えいれてくれた。
 臨時休業のわけを訊くと、
「何となくですよ、ただ何となく、誰にでもそういうときって、あるんじゃないですか」
 夏希は何でもないことのようにいい、麟太郎の背中をぽんと叩いて奥の席に座らせた。
 敏之の失踪と『田園』の臨時休業の真相は、わからずじまいで終った。



         10 11  次へ
 
〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number
第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)