連載
下町やぶさか診療所
第七章 スキルス癌・後 池永 陽 You Ikenaga

 敏之が死んだのは、この事件があってから十日ほど後、自宅での往生だった。
 看取ったのは妻の文子と、容体の変化の報を受けて駆けつけた麟太郎の二人だった。麟太郎が枕許に立ったとき敏之の意識は混濁状態で成す術はなかった。
 肩で大きく息をする敏之の右手が布団のなかから何かを探っている素振りを見せた。文子がその手を握ると、敏之が握り返してきた。
「あなた……」
 文子が小さく叫んだ。
 とたんに敏之の息遣いは弱くなり、意識不明の状態に陥った。が、敏之の右手はまだ文子の手を握り締めている。
 その手から徐々に力が抜け、やがて敏之の指は開いた状態になり、同時に息遣いもすっとなくなった。
 ひと通り体の状況を調べ、麟太郎は臨終を文子に伝えた。文子は両肩を震わせて泣いた。涙が古い畳にしたたり落ちた。
 文子の髪は、このひと月ほどで白髪がかなり増えたようで、黒かった髪は薄い灰色に変っていた。
「文子さん、本当にご苦労様でした。敏之も大変でしたが、いちばん苦労されたのは文子さんだと私は思っています。本当にお疲れ様でした」
 頭を下げる麟太郎に、
「いえ、私なんか。この人の苦しさに較べたら、私なんかの苦しさは」
 文子はいやいやをするように、首を振った。
「でも、あの半日間いなくなったときには、本当に心配しました。本人は喫茶店巡りなどといっていましたが、本当はどこへ行ってたんでしょうね」
 どきりとするようなことをいった。
「いや、敏之は本当に、コーヒーの飲み較べをしてたんだと思いますよ」
 当たり障りのないことをいうと、
「空白の半日間です――」
 ぼそりと文子はいって、ついさっきまで敏之に握られていた左手を麟太郎に見せた。
 よほど強い力で握られていたようで、文子の親指と人差指の間が紫色になっていた。敏之が死の瞬間まで、文子を頼りにしていた証しのように見えた。
「あの、空白の半日間……幸せな人ですね、この人は。これからの語り草になりそうです」
 何もかもわかっているようなことを、文子は呟いた。そして、文子の目尻の皺が急に深くなったように感じた。これは……。
 そう、文子はこのとき、わずかに微笑んだのだ。が、不謹慎には見えなかった。綺麗な笑顔に見えた。
 文子の両目は、まだ涙で潤んでいた。
 麟太郎は畳に額がつくまで、頭を下げた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)