連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・前 池永 陽 You Ikenaga

 足元から寒さが這(は)いあがってくる。
 身震いをひとつしてから『田園』の扉を押すと、暖かな空気が麟太郎の顔に、わっと押しよせた。
「大先生、いらっしゃい」
 機嫌のいい声と一緒に、すぐに夏希がやってきて奥の席に連れていかれる。
「近頃、お見限りで、ちっとも顔を見せてくれないんだから」
 ちくりと夏希は嫌みをいって、
「いつもの、ビールでいいですか」
 うなずく麟太郎の顔を覗きこむように見てきた。
「お見限りって……そんなに俺はここにきてねえかな」
 ぼそっというと、
「そうですね、ざっと数えて十日ほど。大先生は私の顔を見にきてませんね」
 唇を少し尖らせた。
「十日ほどか――」
 確かに常連客の麟太郎にしたら、間が開きすぎていた。が、原因はわかっている。ここにくる心の余裕がなかった。
「実はちょっと心配事があってな。だからよ、とても酒を飲む気がな」
 素直に心のなかを吐露すると、夏希が小指をぴんと立てた。
「心配事ってこっちのほうなの。だから、ここにはこられなかったの」
「そんな色っぽい話じゃねえよ。もっと深刻な話だよ。もっとも、医者には守秘義務ってものがあって、いくら夏希ママでも内容を話すわけにはいかねえけどな」
 釘を刺すようにいうが、麟太郎の心配事はそっちとはまったく関係のないことだった。関係はないものの人に話せるような内容でないことは確かなので、そのために、あらかじめ予防線を張ったのだ。
「あっ、そうなんだ。そっちのほうの話なんだ。だったら、訊くわけにはいきませんよね」
 夏希が納得したところで、店の女の子がビールとツマミを盆にのせて持ってきた。すぐに夏希がグラスにビールを満たす。自分のグラスにも半分ほどいれ、二人はグラスを軽く合せる。
「実は私のほうにも、心配事があるんです。けっこう、深刻というか……」
 ビールを飲みほしてから、生真面目な表情で夏希がいった。
「…………」
 心配事を紛らわせるために夏希の顔を見にきたのに、その夏希のほうも心配事を抱えているというのは……唖然とした面持ちで夏希の顔を麟太郎は見返す。
「オカネ――実は、この店は今、火の車なんです。昔からの借金が、まだかなり残っていて。そんなものはすぐ返せると高を括(くく)っていたんだけど、何といってもこの辺りは一人当りの客単価が安いから。だから目算が外れて、私は頭を抱えているっていう次第」
 一気に喋って夏希は大きな吐息をついた。満更、嘘でもなさそうな話に聞こえた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
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第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)