連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・前 池永 陽 You Ikenaga

「金か……そういう話になると、俺の力ではちょっとな」
 麟太郎も吐息をもらすと、
「わかってますから、大丈夫ですよ。大先生んところは、いつまでたっても医は仁術――お金儲けの道具じゃないから。うちと一緒で客単価が安いから」
 顔中でふわっと笑った。
 やけに綺麗な顔だった。
「少しぐれえの金なら、俺でも何とかなるけどよ」
 しんみりした口調でいうと、
「いいんですよ、無理しなくったって。大先生の顔は、私にとって癒しそのものなんですから。ここに顔を出していただければ、それだけで私は充分です」
 夏希が軽く頭を振ったところで、新しい客がやってきた。
「じゃあ、大先生。またあとで」
 頭を下げて夏希は離れていった。
「俺の顔は、癒しの顔か……」
 独り言のように呟く麟太郎の脳裏に、麻世の顔が浮んだ。心配事の張本人だった。麻世の言動がここのところ変だった。妙に落ちつきがなく、ぎすぎすしたかんじだった。そして、今夜――。

 夕食のあと、麟太郎は思いきって麻世に声をかけてみた。
「麻世っ、近頃顔色が冴えねえし口数も少ねえし、おまけにいつもより帰りは遅えし。いったいどこへ行っているんだ」
 できる限り、柔らかな声で訊いてみた。
「どこへ行ってるって、それは……」
 麻世は少しいいよどんでから、
「道場――」
 ぼそっといった。
 麻世が小学生のころから通っていた、総合武術といわれる柳剛流(りゅうごうりゅう)剣術の林田道場だ。
「林田先生は病気で臥(ふ)せっていると、聞いていたが」
「先生は臥せっていても、門人たちがいるから」
 小さな声で麻世はいう。
「その門人たちと麻世は稽古をしていたというのか。いったい何のための稽古なんだ」
 嫌な予感が胸の奥から、じわじわとせりあがってきた。
「それは、昔の勘を取り戻すためというか、なまった体を引き締めるというか、何というか」
 つかえつかえ、麻世はいった。
「昔の勘を取り戻して、それで麻世はどうするつもりなんだ」
 決定的なことを麟太郎は口にした。
「それは……」
 麻世の顔が歪んだ。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)