連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・前 池永 陽 You Ikenaga

 沈黙が流れた。
「あの、クソ野郎を殺すために」
 押し殺した声で、殺すためにと、はっきり麻世はいった。麟太郎の胸が早鐘を打ったように騒ぎ出した。最悪の言葉だった。
 クソ野郎とは麻世の母親と同棲している三十歳ほどの男で、名前は梅村。母親の留守に麻世を失神させて犯し、そのために麻世は家を飛び出して、この診療所に転がりこんできたのだが。その経緯(いきさつ)の元凶が梅村だった。
「麻世、お前がこの診療所にやってきて、半年以上になる。その間、お前は様々な病人を見てきて、言葉をかわしてきたはずだ」
 ごくりと麟太郎は唾を飲みこみ、
「つまり、お前は、生きるために懸命になって頑張っている人たちと数多く接して、その人たちの気持も肌で感じてきたはずだ。そのお前が、人の命をとろうっていうのか。人を殺そうというのか」
 懇願するようにいった。
「それは……」
 また、沈黙が流れた。
「あいつを殺さないと、私の心が壊れてしまうから。このまま放っておいたら、私が生きていくことができないから。今年おこったことは、今年中にケリをつけたいから」
 ようやく麻世が口を開いた。
「だから、殺すというのか、その殺すための稽古を今日もしてきたというのか」
 叫ぶような声を麟太郎はあげた。
「今日は……」
 切羽つまった声を麻世は出した。
「馬道通り裏のアパートまで行ってきた。あいつと決着をつけるために」
 思ってもいなかった言葉が飛び出して麟太郎は慌てた。元々、麻世は真正直で、嘘のつけない性分なのだ。
「殺しに行ったのか!」
 麟太郎の胸が悲鳴をあげた。
「行ったけど、殺せなかった」
 泣き出しそうな声で麻世は答えた。
「殺せなかったって、それはどういうことなんだ」
 怒鳴った。
 まだ、二時間ほど前のことだという。
 麻世は、かつて住んでいた馬道通り裏のアパートの近くまで行き、電柱の陰に立って出入口を凝視していた。
 麻世がアパートを飛び出してすぐ、梅村が満代の元に転がりこんだのは噂で聞いて知っていた。待っていれば、いつか必ず梅村は出てくるはずだった。そのときが勝負だ。カバンのなかの特殊警棒で、あいつの喉を突くか脳天に渾身の一撃をくらわせれば、すべてはそれで終る。あんなことさえなければ、自分の実力で確実に葬りさることのできる相手なのだ。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)