連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・前 池永 陽 You Ikenaga

 そんなことを何度も胸のなかで呟きながら、麻世は梅村の出てくるのを待つ。寒さに体を固くさせながら辛抱強く待つ。
 立ちつづけて一時間ほど。
 アパートの出入口から、誰かが出てくる気配が伝わった。麻世の体に緊張が走る。右手をカバンのポケットに突っこみ、特殊警棒を握りしめた。
 誰かが出てきた。違った。六十年配の派手目の化粧をした老女だ。麻世は電柱の陰に体をひそめてやりすごす。
 梅村が姿を見せたのは、それから二十分ほど後だった。派手な金具をあちこちにつけた、革ジャン姿だった。
 麻世は電柱の陰から梅村の顔を、息をとめて睨みつける。
 相手はまだ、麻世の存在に気づかない。
 気づいて麻世の顔を睨みつけてきたときが勝負だった。自分は梅村の視線を受けとめることができるのか。恐怖感を克服できるのか。それとも、あの犯されたというトラウマが麻世の全身を再び支配して、手も足も出ない状態に陥ってしまうのか。
 やってみなければ、わからなかった。
 麻世は電柱の陰から体を出し、梅村に向かってゆっくりと歩いた。梅村が麻世の存在に気がついた。真直ぐ麻世の顔を見た。これまでは恐怖で正視できず、忌み嫌ってきた獣の目だ。それが麻世の顔を睨みつけていた。
「何だよ、麻世じゃねえか。俺に抱かれに、また戻ってきたのか」
 梅村が薄笑いを浮べていった。
 麻世の全身に悪寒が走った。
 が、耐えた。
 両目を大きく見開いて睨み返した。
 これなら何とかなる。
 こう確信した麻世が、特殊警棒をひと振りして伸ばそうとした瞬間、別の人間が出入口に顔を見せた。
 母親の満代だ。
 麻世をすてて、十歳以上も年下の男に走った母親の満代だった。これから向島の店に行くようで、顔は厚い化粧におおわれていた。
 麻世と満代の目が合った。満代の表情が変った。浮んでいるのは怯(おび)えのようなもの。小動物の表情だ。満代はすぐに目を伏せた。麻世の顔を見ようとしなかった。
 麻世の体から、ふいに力が抜けた。
 体中が無防備状態に陥った。急に寒さを感じた。体が小刻みに震え出した。これは恐怖だ。元に戻った。もう、梅村の顔を見ることはできない。無理だ。
 麻世はさっと背中を向け、全速力でその場から逃げた。
「麻世、いつでも抱いてやるからよ。おめえだって、本当は俺とやりてえんだろうが」
 満代の前だというのに、梅村のこんな声が背中ごしに聞こえた。
 麻世の話は終った。
 少しの沈黙の後、麟太郎が口を開いた。
「そうか、お母さんとぶちあたったのか。しかし、逆にそれが幸いしたんじゃないのか。麻世はそれで、梅村を殺さずにすんだ。正直俺は、お母さんに感謝してるよ」
 しみじみとした口調でいいながら、満代にあらためて会ってみなければと麟太郎は思った。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)