連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・前 池永 陽 You Ikenaga

「じいさん」
 低い声を麻世が出した。
「私はいったい、どうしたらいいんだ。さっきもいったように、このままだと私の心は壊れてしまう。あのクソ野郎を、この手で何とかしない限り、私は……」
 泣き出しそうな声でいった。
 実際、麻世は泣いていた。
「それを一緒に考えようじゃないか。麻世の心が壊れずに、ちゃんと、まっとうに生きていける方法をよ」
 麟太郎は大きくうなずいてから、
「面と向かって麻世にはいったことはなかったけどよ。俺は麻世に看護師になってもらいてえと、ずっと思っててよ。お前の真正直な心と、ヤンキー上がりの根性は看護師にぴったりだからよ、それでよ」
 独り言をいうようにいった。
「看護師か……」
 ぼそっとした声を麻世はあげた。
「じゃあ、後片づけするから、私」
 テーブルの上のものを流しに運び、洗い物を始めた。
 後ろ姿の両肩が落ちていた。

 次の日の昼休み、馬道通り裏の麻世の母親の住むアパートを麟太郎は訪れていた。
 ドアをノックすると、少しして中年女の顔が覗いた。満代だ。起きて、まだまもない顔に見えた。
 麟太郎の顔を見た満代は「あっ」と叫んでドアを閉めようとしたが、麟太郎は素早く右足をなかにいれ、強引に部屋のなかに体をすべりこませた。
「少し話をしにきただけですから。お母さんの本意が知りたいだけで、説教する気も怒る気もないですから」
 哀願するようにいって部屋のなかを覗きこんだが、幸いなことに梅村はどこかに出かけているようで、その気配はなかった。
 麟太郎の言葉に少しは安心したのか、満代はおどおどした様子でなかに招きいれた。奥の部屋に通されて、小さなテーブルを挟んで二人は向き合った。
「今、お茶を」
 と席を立とうとする満代を制して麟太郎は話を切り出した。
「昨日のことは、もちろん、お母さんもご存知ですよね」
 というと、満代はわずかに首を縦に振った。
「麻世と、梅村という男との間に、何があったかは、お母さんも知っているんですね。そのために麻世が昨日、梅村を殺しにきたということも」
 いいづらいことを口にすると、満代はまたわずかにうなずいた――この女性は何もかも知った上で、あの男と一緒に暮しつづけているのだ。
 麟太郎は診療所にきてからの麻世の生活をざっと満代に話して聞かせ、
「あの、梅村という男と、お母さんは別れることはできませんか」
 思いきっていってみた。
 満代の体が左右に揺れた。
 視線はテーブルに落したままだ。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
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第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)