連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・前 池永 陽 You Ikenaga

「今更別れても、麻世は決して許してはくれないでしょう」
 しばらくして、細い声を満代は出した。
「許してくれるか、くれないかはわかりませんが、まず別れるというのが人の道というか、親の道じゃないですか」
 諭すようにいうと、
「私はもう、人の道からも親の道からも外れた身ですから」
 また満代の体が揺れた。ゆっくりと顔をあげて麟太郎の顔を見た。青ざめた顔だった。まるで何もかも諦めたような、まったく覇気を感じさせない、生命力のない不思議な顔だった。
「それでも、お母さんは麻世の母親です」
 凛(りん)とした声を麟太郎はあげた。
「こんな女を親にするより、先生のところに置いてもらっていたほうが、あの子には幸せのような気がします。さっきの先生の話だと、ゆくゆくは看護師にさせたいと――そうしていただければ、それがいちばん麻世のためになるのではと、私は……」
 一気にいってから、満代は両肩で大きく息をした。両目が潤んでいるようにも見えた。理由はわからないが、何かに必死で耐えているような顔にも見えた。
「ですから、私のことはもう、ほっといてくれたほうが。でも、勝手ないい分ですが、麻世のことだけは、あの子のことだけは何とか、よろしくお願いいたします」
 途切れ途切れにいってから、満代は麟太郎に向かって両手を合せた。そのとき、玄関のほうで音がして、人の気配が伝わった。満代の体が左右に大きく揺れた。おそらく、梅村が帰ってきたのだ。
「出ねえ、いくら弾いても玉が出ねえ。まったく頭にくる」
 こんな声が響いてから、
「何だ、誰かきてるのか、客か」
 不審げな声が聞こえた。
「先生、今日のところはこれで、お願いですから、先生」
 満代のおろおろした声に、麟太郎も慌てて席を立つ。できるなら、麟太郎もこんなところで梅村と事をおこしたくはなかった。
 梅村が奥の部屋に入ると同時に、麟太郎はすれ違いざま廊下に出た。
「あっ、何だてめえ。こんなところまで何しにきやがった」
 怒号を背中に素早く靴をはいた。
「ちょっと真面目な話をしにきただけだ。喧嘩をしにきたわけじゃねえ」
 はっきりした口調でいうと、
「てめえ、もう、麻世とはやったのか。麻世は俺の女だ。てめえごときに勝手なまねはさせねえから、そう思え。オイボレのクソッタレ医者がよ。そのうちに、てめえの家まで挨拶に出向いてやるから、首を洗って待っていやがれ、莫迦野郎が」
 臆面もなく大声でいい放った。
 ここは地獄だ。
 そう思った。
 麻世を帰すところでは決してない。
 アパートを背に、そんなことを考えながら歩く麟太郎の胸に違和感のようなものが、突然湧いた。満代とのやりとりのなかだ……しかし、それが何であるかは、いくら考えてもわからない。たったひとつわかったのは、満代は得体のしれぬ女。それだけだった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)