連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・前 池永 陽 You Ikenaga

 それにしてもと麟太郎は頭を振る。
 こう問題ばかりが一度に噴出して、いったい自分はどうしたらいいのかと、少し途方にくれる。実は昨夜、あれからすぐに、潤一が『田園』にやってきたのだ。
「仕事が早く終ったので家に寄ってみたけど、親父はいないし、声をかけても麻世ちゃんは出てこないし。それで、どうせここだろうと思って、きてみたんだけど」
 どうやら麻世は部屋にこもって、居留守を決めこんだようだ。
「でも、麻世ちゃんは、一緒じゃないんだよな」
 潤一はいいながら、周囲を見まわす。いかにも残念そうな表情だ。
 このとき麟太郎は、麻世のあれこれをすべて潤一に話してみようと決心した。いつまで黙っていても仕方がないし、潤一は麻世にぞっこんのようだし。やはり、すべてを話しておいたほうが麻世のためにも潤一のためにもいいような気がした。
 医者である潤一なら他の人間に話すこともないだろうし、騒ぎ立てることもないはずだ。ただ、麻世のすべてを潤一が聞いて、どんな態度をとるのか……そのあたりがまったく予測できなかった。一度は潤一と麻世が一緒になったらなどと考えたこともあったが、その可能性もどうなるのか……。
「いらっしゃい、若先生」
 とテーブルにきた夏希に、内密の話があるからと制して、麟太郎はグラスのビールをひとくち飲んでから、ゆっくりと麻世にまつわる、すべてを潤一に語った。
 麻世のヤンキー時代の話は割に平気な顔で聞いていた潤一だったが、麻世の母親と梅村のこと、そして梅村と麻世の間におきた痛ましい事件のことに話がおよぶと、顔色がさっと変った。それまで打っていた相槌もなくなり、顔つきが険しくなった。
「それは、すべて本当のことなんだな」
 話が終って潤一が口にしたのは、この一言だけだった。
「そうだ、忌わしい話だが、すべて本当のことだ」
 ぽつりと麟太郎がいうと、
「悪いが親父、俺は今日はこれで帰らせてもらう」
 それだけいって潤一はすっと席を立ち、ドアに向かって早足で歩いていった。
「えっ、若先生、もう帰っちゃったんですか。何も飲まずに」
 飛んできた夏希が呆気にとられた声をあげて、潤一が消えたドアを見つめた。
「あいつも、いろいろ悩みがあってな。その対処というか対応というか」
 苦し紛れに麟太郎がこういうと、
「悩みですか。若先生にも、そういうものがあるんですねえ。あんなに若くて、ハツラツとして、立派なのに」
 夏希は納得したような声をあげてこんなことをいってから、麟太郎の前の席にそっと座りこんだ。
「実は大先生……」
 妙に真剣な表情で麟太郎を見た。
「実は何だよ。金の話なら、さっき聞いてはいるけどよ」
 低い声を麟太郎は出す。
「それがらみの話では、あるんですけど」
 夏希もふいに声を落した。
「私、夜逃げするかもしれません」
 蚊の鳴くような声でいい、泣き笑いのような表情を夏希は見せた。

(つづく)



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)