連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・後(最終回) 池永 陽 You Ikenaga

 午後からの診療が終り、麟太郎は母屋の居間のソファーに仰向けに体を投げ出して天井を見つめている。
 麻世は林田道場に寄っているのか帰っておらず、居間にいるのは麟太郎だけ。むろん、頭のなかを占めているのは麻世のことだ。いったいどうしたらいいのか、いくら考えてもいい答えは出てこない。
「無血開城なあ……」
 ぼそっと口のなかだけで呟いてみる。
 これはついさっき、診療の終りがけに風邪をひいたといってやってきた、風鈴屋の徳三の言葉だ。
 風邪は徳三の持病のようなもので、季節の変りめになると、鼻をぐずぐずさせながら必ずやってくる。そして診察が終って徳三が麟太郎にいう言葉がきまってこれだった。
「風鈴屋なんてのは、火の前の作業がほとんどなんだけど、なんで風邪なんかひくのかね。そこんところが、どうにもよく、わからねえんだけどね」
 すぐに麟太郎は身を乗り出し、
「年を取ったということさ」
 勝ち誇ったようにいうのだが、徳三も黙ってはいない。
「――年か。まあ、これもお互い様の話だよな」
 と反撃が始まり、お互い江戸っ子同士の意地の張り合いになるのだが、今日はそれがほとんどなかった。
「ところで大先生、今日は顔色がよくねえし、元気もねえようだが、どこか具合でも悪いんじゃねえんですか」
 心配そうな顔を向けてきた。
「病気ではないんですが、ちょっと心のほうというか何というか」
 口のなかでむにゃむにゃ麟太郎はいう。
「心の病いねえ、なるほどねえ」
 徳三は妙に納得した表情を浮べてから、ぽんと両膝を叩き、
「江戸っ子の勝手な我なんぞは、すべてかなぐりすてて、ここは相手を立てて丸く収める、無血開城――それしかねえんじゃござんせんか」
 何かを勘違いしているようなことをいった。
「大体が大先生の麟太郎っていう名前は、八百八町といわれる江戸の町を薩長の砲火から守って無血開城に導いた、勝麟太郎からとって先代がつけたもんでござんしょう。だったら大先生も――」
 したり顔で徳三はいった。
 これはその通りだった。
 しかし、相手は勝麟太郎である。
 どこからどう眺めても名前負けするのは確実で、そのために今まで、どれほど情けない思いをしてきたか。第一、麟太郎の麟の字は難しすぎて書きにくい。やっぱりここは倫の字だろうと思いつつも、麟太郎という名前を密かに気にいっていることも確かなのだが。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
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第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)