連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・後(最終回) 池永 陽 You Ikenaga

「無血開城なあ……」
 再び麟太郎は口に出して呟き、天井を睨みつける。
 そうするにはいったい、どうしたらいいのか。麻世を思い止まらせることができれば、いちばんいいのだが、その方法がまったくわからない。何しろ相手は、あの麻世なのだ。あの麻世が腹を括(くく)って梅村を殺すと決心しているのだ。これを覆えさせるとなると、どんな方法が……。
 思考はいつも堂々巡りで終ってしまう。
 それに麟太郎には他にも心配事があった。
 ひとつは夏希ママの夜逃げの件で、もうひとつが先日麻世のすべてを話した際、かなり落ちこんだ様子を見せた潤一だ。このふたつを、どうしたらいいのか。
 溜息をつきながら、麟太郎が白髪まじりの髪をかきむしったとき、居間につづく扉の開く音が耳を打った。
 慌ててソファーの上に起きあがると、心配事の張本人である潤一が立っていた。

「おう」と声をあげると、潤一は軽く手をあげてから麟太郎の前のソファーに腰をおろす。少しやつれて見える。
「元気か」
 短く声をかけると、
「まあ、そこそこ」
 という答えが返ってきた。
 しばらく沈黙が二人をつつみこむ。
「俺はよく、女性の看護師さんたちから食事に誘われるんだけど」
 ふいに潤一が話しはじめた。
「半年ほど前から、その誘いをずっと断りつづけてきた」
 いったい何がいいたいのか、麟太郎にはさっぱりわからない。
「その理由をよく考えてみたら、ひとつの名前が俺の頭に浮んできた。つまり、麻世ちゃんが、この診療所にきてから、俺は看護師さんたちの食事の誘いを断り始めたということに気がついた」
 ようやくわかってきた。相変らず理屈っぽいやつだ。
「親父たちは知らないだろうけど、どうやら俺は、あの年の離れた沢木麻世という元ヤンキーに好意を持っていたらしい」
 そんなことは、みんな知っている。
 が、麟太郎は口を挟まない。
「そのあげくに、親父から麻世ちゃんの衝撃の過去を聞かされて、俺は正直落ちこんだ。どう気持の整理をつけていいのか、わからなかった。だから、ここにもくることができなかった」
 潤一は小さな吐息をもらして、体をちょっと揺らした。膝の上に置かれた両手は、色が変るほど固く握りしめられている。少なくとも、今日はこいつは本気だ。
「で、昨日のことなんだけど。俺は久しぶりに、外科病棟で一番という美人の看護師さんに、食事に誘われた。だけどそれを、俺は即座に断った。一瞬の迷いもなかった。何があろうが、かにがあろうが、俺はやっぱり沢木麻世という元ヤンキーが好きなんだということを思い知らされた瞬間だった。そういうことだ、親父」
 潤一の話は終った。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)