連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・後(最終回) 池永 陽 You Ikenaga

 さっきは、こいつも少しは大人になったと思ったが、今の答えでは子供そのもの。大人の分別やら躊躇(ためら)いなどはまったく感じられないどころか、みごとに欠落していた。しかし、麟太郎はそれでいいと思った。甘かろうが何だろうが、潤一の口から即座にこの言葉が出たのが嬉しかった。
「もし、麻世ちゃんが殺人を犯したら、おそらく看護師にはなれませんよね」
 ぽつりと潤一がいう。
「なれねえだろうな。仮に国家試験に通って資格が取れたとしても、そんな過去を持つ人間を雇ってくれる病院や医院はないだろうからな」
 苦しそうにいう麟太郎に、
「ここを除いては……」
 嗄(しわが)れた声を潤一が出した。
 一瞬、周囲を沈黙がつつんだ。
「うちでも無理だな。俺の本音をいえば雇ってはやりてえが、そこはやっぱり、医院というのは人の命を預かる場所だからな。重罪を犯した人間を入れるのは、無責任が過ぎることになる。それに、俺が死ねばこの診療所は廃院になる。そうなると、麻世の行き場はなくなる。やはり、他の仕事に就いたほうがいいだろうな」
 力のない声で麟太郎はいった。
「麻世ちゃんは、殺人を犯したら看護師になることは無理だということを、知ってるんですか」
「わかってると思うよ。あいつは、けっこう頭のいい子だからよ。そんなことぐらいは、とうの昔によ。悲しいことだけどよ」
 麟太郎の声から更に力が抜けた。
「麻世のお母さんも、そのことは知ってるんですか」
「知ってるよ。先日アパートを訪ねて話をしていて梅村の声が玄関に聞こえたとき、俺は慌てて満代さんにこのことをいっている」
 あのとき、梅村の声が玄関に響いた瞬間――。
「先生、今日のところはこれで、お願いですから、先生」
 おろおろした声をあげる満代に、
「さっき、お母さんは麻世さんを看護師にしてほしいといってましたが、殺人を犯せばそれは無理です。殺人者を雇ってくれる病院は日本中のどこを探してもありません」
 麟太郎は早口でまくしたてた。
 満代の表情に絶望的なものが浮んだ。
「先生のところでは……」
 絞り出すような満代の声に、麟太郎は慌てて首を左右に振った。そうとしか答えられなかった。
 そのとき満代が、ふわっと笑った。
 意味のわからない笑みだったが、それを詮索する余裕は麟太郎にはなかった。部屋に入ってくる梅村とすれ違いざまに廊下に出た。
 その後は、何がどうなったかはわからない。
「お母さんも、俺と同じことをいいましたか」
 話を聞いた潤一はぽつりといい、
「そして満代さんの問いかけに、親父ははっきりと首を横に振って、ノーと答えたんですね。それなら」
 話を聞き終えた潤一が勢いこんでいった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)