連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・後(最終回) 池永 陽 You Ikenaga

「それなら、何だ?」
「何か、事を起こしてくれるかもしれないと思って」
「それは無理だと思う。満代さんは梅村に溺れているかもしれないが、怖れている部分も相当ある。いちばんいいのは満代さんが梅村を説得して、二人でどこかに消えてくれれば万々歳なのだが、金のない梅村がそんなことを承諾するはずがない」
 潤一をじろりと睨みつけ、
「あとの望みは、満代さんが梅村ときっぱりと別れてくれること。そうすれば麻世の気持も微妙に変化することも考えられるが――先日の様子ではこれも見込みは薄い。ざっと話してしまえば、こういうことだ。情けない話だけどな」
 いい終えた麟太郎は肩で大きく息をした。
「そうなってくると、あとの選択肢はと考えてみても残っているものは、何もないじゃないですか」
 叫ぶようにいった。
「そうだな。たったひとつを残して、あとは何もない」
「たったひとつを残してって、それは!」
 すぐに潤一が反応した。
「麻世が事をおこすとしたら、俺もそこへ一緒についていく。そして、イザというときには体を張って麻世と梅村の間に飛びこむ。俺がついていく以上、麻世を殺人者には絶対にさせないつもりだ」
 低い声でいい放った。
「親父が体を張って! それなら俺も一緒に行く」
 潤一が怒鳴った。
「それは無理だ。俺一人なら、麻世も渋々承知するかもしれねえが、まだ信用度の低いお前が一緒に行くといっても麻世は承知しねえだろ」
「それは……」
 潤一は一瞬絶句してから、
「よろしく頼む、親父」
 麟太郎に向かって深々と頭を下げた。
「それから親父。俺たちは麻世ちゃんが勝つという前提で話をしているけど、その逆の結果になるってことも充分に考えられるから。何といっても梅村は麻世ちゃんのトラウマの元凶だ。蛇に見込まれた蛙状態になる可能性も、かなりあると思うから」
 下げた頭を上げざまにいった。
「わかってるさ。それもあって俺は一緒に行くんだ。これ以上、あの男に麻世をいいようにはさせん」
 断言するように麟太郎はいう。
「それを聞いて安心したよ。しかし、親父、とんでもないことになっちまったな。メチャクチャというか支離滅裂というか。まさか、俺たちの日常に殺人が絡んでくることになるなんて……親父の人生においても、まさに究極のお節介になっちまったな」
 頭を振りながらいう潤一に、その通りだと麟太郎も思う。
 麻世というヤンキーの高校生を引き取ったことが、こんな結果を招くとは。だが引き取らなかったら、今頃麻世はどうなっていたのか……そう考えてみると、この究極のお節介は本物のお節介といえないこともない。
 これでいいのだ。
 江戸っ子は常に判官贔屓(はんがんびいき)。
 たとえそれが損な役回りだったとしても。
 それに、駄目な子ほど可愛いものだ。
 そんなことを考えていると「親父」と潤一が声をかけた。
「さっきの馬道通り裏のアパートでのやりとりのつづきなんだが、なぜ麻世のお母さんは親父がノーの返事をしたにもかかわらず、顔に笑みを浮べたんだろうな」
 真剣な表情で訊いてきた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)