連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・後(最終回) 池永 陽 You Ikenaga

「俺の診立(みた)てでは――」
 麟太郎は一呼吸置いてから、
「満代さんは今のすさんだ毎日のなかで、心を病んでいるように思える。専門じゃねえから断定はできんが、かなりの強迫観念に苛(さいな)まれているような気がする」
 ゆっくりとした口調でいった。
「そうか、心の病いか――もしそうなら、お母さんのほうも、何とか正常に戻してやらないといけないな」
 腕をくんで独り言のように潤一はいった。
 やっぱりこいつは、優しいのだ。
 ほっとする思いが体中をつつみこむ。
「そうだな。麻世も満代さんも、何とか幸せになってもらわねえとな」
 そういったところで、玄関の扉が開く気配が伝わってきた。
 麻世が帰ってきたらしい。
「おい、暗い顔は見せるなよ。あくまでも平常心でいけよ。何でもないふうに装って接しろよ」
 麟太郎は慌てて潤一に釘を刺す。
「わかってるよ。俺も一人前の大人だから、へまはやらないよ」
 潤一がいい終えると同時に居間の扉が開き、麻世が顔を覗かせた。
「あっ、おじさんきてたの。ここんところ、ずっときてなかったのに珍しいね」
 渦中のまっただなかにいるはずの麻世は、そんなことなどお構いなしといった感じで、やけに明るい声を出して潤一を見た。

 夜になって麟太郎は『田園』に顔を出した。
 成功するかどうかは別にして、麻世の件にどう対処するかも決まったし、潤一の腹づもりもわかった。残るは夏希の夜逃げの件だけということできてみたのだが、あいにく今夜に限って店は混んでいた。
「あら大先生、いらっしゃい」
 すぐに夏希が飛んできて、店の隅の二人席に座らせる。
「この状況ですから大事な大先生との、つもる話は、あとでゆっくりとね――ビールでよかったんですよね、大先生は」
 それだけいって夏希は麟太郎の前から離れ、代りに若い女の子がビールとツマミを持ってきて「ごめん、大先生」といって、これもすぐに離れていった。
 乾き物を口にしながら、麟太郎はビールを手酌で渋々飲む。たまにはこういう飲み方もいいものだ。ものがじっくり考えられて、有意義な時間を過すことができる……などと自分を無理やり納得させて、麟太郎は今日の麻世と潤一とのやりとりを思い出す。
「ずっときてなかったのに珍しいね」
 と麻世にいわれた潤一はこんな言葉を口にした。
「麻世ちゃんのつくる、まずい料理が懐しくなって。それで、あの独特の味を楽しむために寄ってみた」
 これには麟太郎も驚いた。
 これまでは麻世のつくるどんな料理も、おいしいと誉(ほ)め言葉を並べたてて食べていた潤一が初めてまずいという言葉を口にしたのだ。潤一のなかで何かが変ったとしか思えなかった。
 この言葉にいちばん気をよくしたのは、麻世だった。
 まずいものを無理をしてうまいといってもらうよりも、まずいものは正直にそのまま口に出してもらったほうが、どうやら麻世には嬉しいらしい。妙といえば妙だが、麻世という娘は元々、そういうちょっと変った性格の持主なのだから仕方がない。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)