連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・後(最終回) 池永 陽 You Ikenaga

「何だかおじさんも、お坊っちゃまから少し脱皮して、多少は大人になったようなかんじだな」
 麻世もいいたいことをいう。
「俺もそう思うよ。近頃ようやく成人式を迎えたような気分で、身が引き締まる思いがするなって」
 潤一も軽口を飛ばして対応する。
「ということは、ひょっとして彼女でもできたということか。よかったね、おじさん。末永く幸せにな」
「いや、そんなことは」
 麻世の言葉に突然潤一は、うろたえたような声を出す。
「まあ、そんなことは、私にとってどうでもいいことだけど」
 麻世は更に一刀両断して、
「ところで、今夜は何が食べたいんだ。希望があったら聞いてやってもいいけど」
 ぶっきらぼうにいう。
「なら、お言葉に甘えて、カレーっていうのはどうだろう」
 まともな声に戻して潤一はいう。
「きまり。じゃあ、カレー焼そばをつくるから、しっかり食べてよ」
 面白そうにいった。
「いや、カレー焼そばじゃなくて、カレーライスのつもりでいったんだけど」
 カレー焼そばは一度食べて懲りている。カレー味はするものの、麺がもつれ合ってぐちゃぐちゃ状態になり大変なことに……それを思い出して抗議するように潤一がいうと、
「カレー焼そばも、カレーライスもカレーに違いはなし。男なんだから、一度口に出したことを訂正するのは見苦しい。男と男の約束は何があっても守らないと。それが、いっぱしの男というもの」
 屁理屈を並べたてられ、潤一は顔を硬直させて黙りこむ。まだまだこいつは、修行が足らないようだ。
 そんな潤一の様子を目の端において、麻世は「ふん」と鼻を鳴らして台所に去っていった。すぐに麟太郎の十八番である『唐獅子牡丹』の鼻歌が聞こえ出して、麻世の夕食づくりが始まった。
「しかし、あのカレー焼そばは、まずすぎる。あれはいかにも、単なるエサというか……」
 ビールを喉の奥に流しこんでから、麟太郎は口に出して呟く。
 のろのろと時間は過ぎる。
 一時間ほどして、ようやく夏希が麟太郎の席にやってきた。
「お待たせしました、大先生」
 夏希はそういって、麟太郎の前の席に滑りこむように座る。ビールを手にして麟太郎のコップになみなみと注ぎ、持ってきた自分のコップにも注ぐ。
「乾杯っ」
 とコップを合わせて、夏希は一気に半分ほどビールを喉の奥に流しこむ。
「火の車だっていってたけど、けっこう繁盛してるじゃねえか」
 ぼそっとした声をあげると、
「みんなに店を閉めるかもしれないって伝えたら、お客さんがどっと押しよせてきただけで、ここしばらくの間だけ。時間がたてばまた、元通りになるんじゃない」
 何でもない口調で夏希は断言する。
「みんなに店を閉めるって、いったのか」
 常連客は仕方がないとしても、みんなにいっているとは思ってもみなかった麟太郎は、ちょっと口を尖(とが)らす。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
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第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)