連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・後(最終回) 池永 陽 You Ikenaga

「いったわよ。郷里(くに)の母親の認知症が進んで、それで店をたたんで帰らなきゃならないかもしれないって」
「郷里の母親の認知症って――原因は借金じゃなかったのか」
 不審げな面持ちで麟太郎は訊く。
「何をとぼけたことをいってるんですか、大先生。借金で首が回らないなんてこと、いえるわけないじゃないですか。しっかりしてくださいよ」
 夏希の説明に麟太郎はようやく納得する。
「もちろん、夜逃げの話なんか、誰にもしてませんから。それをしたのは大先生だけ。だから、この話は胸の奥にね」
 とたんに麟太郎の胸に満足感が湧きあがる。現金なものである。
「で、その夜逃げなんだがよ」
 身を乗り出して麟太郎は声をひそめる。
「いったい、いつごろ決行するつもりなんだ。早いうちなのか、それともずっと先のことなのか」
「早いうちに決まってるでしょ。早いうちに、さっさとやるから夜逃げ。ずっと先のことなら、これは引越し。余裕のある人がやることで、めでたいことになっちゃう」
 顔をしかめて夏希はいう。
「そりゃあ、そうだがよ。で、その早いうちっていうのは、一週間とか十日とか、そんなくらいのものなのか」
 更に声をひそめて訊くと、
「それは……」
 麟太郎の顔を夏希がじっと見つめた。
「今度の日曜日――休みに乗じて、さっとここを出て行こうかと」
 麟太郎の胸がどんと鳴った。
「今度の日曜日って、あと四日しかないじゃねえか」
「そう、そのあと私は、この町の伝説の女として名を残すの」
 ささやくようにいう夏希に、
「伝説なんて、どうでもいいけどよ。本当にすまなかった。俺に甲斐性がねえばかりに、そんなことになっちまってよ。本当にすまねえ。この通りだ」
 麟太郎は深々と頭を下げる。
「あら、大先生。いつから私のパトロンになったの。そうじゃないでしょ。だから、そんなまねはよしにして」
 しんみりした口調で夏希はいい、
「だけど、また、きっと戻ってくるから。そのときは……」
 麟太郎を見る夏希の目に光が増した。
「麻世ちゃんが私を助けてくれれば、万々歳なんですけどね」
「麻世か――悪いがあいつのことは、あまり当てにしないほうがよ」
 低い声で麟太郎がいうと、
「駄目ですか、やっぱり。でも、諦めませんから。人の心は変りやすいものですから」
 未練たらしい声を夏希はあげた。
「その麻世のことで、ひとつ訊きたいんだがよ。あいつは本当に、男にモテモテの女なのか。プロとして、ママから見てどうなんだ」
 首を傾げながら麟太郎はいう。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)