連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・後(最終回) 池永 陽 You Ikenaga

「何を今更――」
 夏希は首を振りながら、
「美人度は私のほうがやっぱり上ですけど、可愛らしさはあの子のほうがダントツ。悔しいですけどこれは事実。それが証拠に、ここに十人の男がいて、あの子がちょっと色目を使えば――いったい何人の男が、あの子になびくと思います、大先生」
 逆に麟太郎に訊いてきた。
「そりゃまあ、四、五人ぐれえはよ」
「大外れ!」
 叫ぶように夏希はいい、
「十人男がいたら、十人とも麻世ちゃんに惚れるはずです。永年、この商売をやってきた私がいうんだから間違いナシ」
 断定するいい方をした。
 いくら何でも十人が十人ともとはいいすぎだと思うが、それにしてもと頭に麻世の顔を浮べたとたん、それがふいに潤一のものに変った。何とも情けない顔をした潤一の顔だ。
「やっぱり、あいつにゃ無理かもしれねえな」
 心の奥で呟いたところで、
「ですから、麻世ちゃんが、もし私の味方になってくれたとしたら。あの子の体を担保にすればお金なんかいくらでも出してもらえるはず、いくらでも」
 何やら物騒なことをいい出した。
「おいおい、ママ」
 慌てて麟太郎は声を張りあげる。
「あら、冗談ですよ、ほんの冗談――それにしても大先生。一緒に暮してて、麻世ちゃんの可愛らしさを感じないんですか。それってちょっと、おかしいような気がしますよ」
 怪訝な表情を向けてきた。
「周りからいわせると、俺の美的感覚は古いんだそうだ。けど、そういわれても俺はやっぱり、ちゃんとした大人の女というか、しゅっとした美女というか。そういう女のほうがいいなあ」
 とたんに夏希が身を乗り出した。
「大先生、偉い! やっぱりちゃんと物が見えてる。要するに大先生は、麻世ちゃんより私のほうが格は上。私のほうが美しい。そういいたいんでしょう」
「それは、まあな」
 歯切れの悪い言葉を出し、
「けどよ、ママは今度の日曜日に俺の前から消えちまうっていうしよ。いくら俺がママに熱をあげてもよ」
 すがるような目を夏希に向けた。
「あっ、駄目ですよ、そんな目をしても。夜逃げのどさくさに紛れて私をクドこうとしても。私は、やり逃げだけは嫌ですからね」
 ぴしゃりといった。
「俺は何も、そんなことはよ」
 と麟太郎がしょげたところで、
「ママ、お願い」
 店の女の子の声が飛んだ。どうやらまた、新しい客がきたようだ。
「じゃあ、大先生。またあとで」
 夏希は右手をひらひらさせて、その場を離れていった。
 淋しさだけが麟太郎の胸に残った。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)