連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・後(最終回) 池永 陽 You Ikenaga

 夜の十時半過ぎ。
 麟太郎は麻世と二人で小松橋通りを東に向かって歩いている。目指しているのは今戸(いまど)神社の境内、十一時が約束の時間だった。
 麻世の服装は穿き古したジーンズに、ゆったりとした綿の上衣。靴はスニーカーという動きやすいものだ。
「麻世。お前、大丈夫なのか。体調はいいんだろうな」
 麟太郎は、隣の麻世に心配そうな声をかける。
「私は大丈夫だよ。いつ、事に及んでも心は常に平常心。心配なんていらないよ」
 と麻世はいうが、どことなく声に震えがあるようにも聞こえる。
「無理はするなよ。危ないと感じたら、さっさと逃げ出せよ。あんなクソ野郎のために命を張ることなんぞねえからよ」
「命は張るつもりだよ。そのつもりで出てきてるんだからね。でも、死にはしないよ。死物狂いで、あのクソ野郎に立ち向かっていくだけで、犬死にだけはしないつもりだよ」
「犬死にって、お前」
 麟太郎はひしゃげたような声を出し、
「ところで、その後ろのポケットに捩(ね)じこんである特殊警棒で、本当にあいつの脳天を砕くつもりなのか」
 恐る恐る訊いた。
「砕くよ、あのクソ野郎の頭蓋骨を。一撃であの世に送ってやるよ」
 珍しく嗄れた声が返ってきた。
「その、前にもいったように、その一撃をもう少し横にずらして、肩の骨を砕くぐらいでは駄目なのか。それなら、単なる傷害罪ですむんだがよ」
「駄目っ。私は、あのクソ野郎を殺すために闘うんだから。そうでないと、私の心は壊れてしまうから」
 叫ぶようにいった。
 どうやら口とは裏腹に、麻世の心は平常心とはほど遠い状態のようだ。
 麟太郎が今夜のこのことを知ったのは、二日前の日曜日のことで、夏希が夜逃げを決行する日だった。
 午前中に『田園』の前に行き、扉を押してみたが開く気配はなかった。といっても、日曜は店の定休日なので扉が閉まっているのは当然のことでもあるが。
 昼食のとき、一緒に食卓についている麻世に、麟太郎は思いきって声をかけてみた。梅村の件だ。どうなっているのか訊いてみると、即座に答えが返ってきた。
「二日後の夜に、決着をつけようと思っている」
 はっきりした口調で麻世は、こういった。
「二日後って、それはもう決まっているのか。それともまだ、仮定のことなのか」
 おろおろ声を麟太郎はあげた。
「きまってる。あのクソ野郎にも連絡済みのことだよ」
 麟太郎の顔を見ないで麻世はいった。
「連絡って、どうやって連絡したんだ。電話でもしたのか」
 という麟太郎の問いに、アパートの郵便受けに手紙を入れてきたと麻世はいった。
『一対一で勝負をつけよう。
 得物は自由。当方は特殊警棒持参』
 内容はこれだけで、あとは日時と場所の指定のみという簡単な手紙だった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
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第五章 幸せの手・後
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第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
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第二章 二人三脚・後
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第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)