連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・後(最終回) 池永 陽 You Ikenaga

「なぜ、手紙を出す前に、俺に相談してくれなかったんだ」
 叫ぶようにいう麟太郎に、
「相談っていっても何もないし、どうせ止めにかかるだけだろうし」
 麻世はほんの少し、すまなそうにいった。
「出しちまったもんは仕方がねえ。だけど、俺も一緒に行くから、それだけは認めろよ、麻世」
「一緒に行くったって、これは一対一の勝負だから、じいさんは邪魔になるだけだと思うけど。余計な手出しをしてもらっても、困るしな」
「手出しはしねえ。ただ、勝負が公正に行われるかどうかを見極める、検分役だ」
 これは嘘である。イザとなったら、飛び出して悲惨な結果になることだけは避けなければならない。
「とても、本当とは思えないんだけど」
 ぼそっと麻世はいう。
「そのあたりは信用してもらわねえとな。それにな」
 真正面から麻世の顔を睨みつけた。
「お前は勝つつもりでいるようだが勝負は時の運で、お前が負けることも大いに考えられる。そんなとき、今戸神社の境内に横たわっているお前を見て、あのクソ野郎は何もしないで黙って帰ると思うか」
 麟太郎の言葉に麻世が「あっ」と叫んだ。顔から血の気が引いて蒼白になった。唇は紫色に変っている。
「酷(ひど)いことが、またおきることになる。俺はそれを阻止するために一緒に行くんだ。お前をこれ以上、泣かせるわけにはいかねえからよ。むろん、お前が負けた場合、あのクソ野郎は俺に向かってくるだろう。俺がいては、お前を自由にすることはできねえからな。だが、俺はあの男とは闘わん」
 麟太郎は大きくうなずいてから、
「闘って俺が負ければ、やっぱり悲惨なことになるのは間違いない。だから俺は、あの男が俺に向かってきたら、即座に浅草署にケータイから電話を入れる。それがお前を守る、最良の方法だからな」
 噛(か)んで含めるようにいった。
「そこまでは考えてなかった。勝つことしか頭になかった。いいよ、ついてきても。もう、あのクソ野郎にいいようにされるのは嫌だから。でも、勝負が終るまで、手出しはしないことだけは約束してくれよ」
 掠(かす)れた声でいう麻世に「わかった」と麟太郎は首を縦に振る。
 こんなやりとりが二人の間であって、約束の場所に向かって歩いているのだ。
 今戸神社の境内に着いたのは、十一時五分前。まだ梅村はきていないようだ。
 麻世は境内の中央、麟太郎は絵馬の吊るしてある木枠の陰にそっと立つ。街灯の光と空には十三夜の月。明りは充分だった。辺りは澄みきっている。
 時間が十一時を過ぎた。
 梅村はまだ姿を現さない。
 本当にくるのか、手紙はちゃんと手に渡っているのか。そんな心配を麟太郎が胸に抱き始めたころ、東側の参道に大きな影が見えた。やってきたのだ、あのクソ野郎が。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
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第五章 幸せの手・後
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第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
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第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)