連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・後(最終回) 池永 陽 You Ikenaga

「おうい麻世。元気か。手紙を見て俺は嬉しくて嬉しくてよ。また、お前を抱けるかと思うと、この辺りが疼(うず)きまくってよ」
 梅村は右手で股間の部分を、ぽんぽん叩いた。左手に提げているのは、あれは木刀だ。梅村の得物だ。多分、今までに何度も使ってきた、梅村の得意の武器だ。
「お前の胴にこいつで一撃を加えれば簡単に失神する。そうしたらその体を夜の明けるまで、丁寧に可愛がってやるよ」
 嬉しそうにいう梅村に、
「そうはいかんぞ、クソ野郎」
 怒鳴ると同時に、麟太郎は木枠の陰から境内にのそりと出た。
「何だ。てめえも一緒か、くそったれのオイボレ医者。二人がかりで向かってくるつもりか」
 梅村の顔が醜く歪んだ。
 正真正銘、獣の顔だ。
「勘違いするんじゃねえよ。俺は二人の勝負の検分役で麻世に加勢するつもりはねえ。ただ、麻世が負けたときは、お前さんの獣の所業だけは阻止するつもりだがよ」
 一語一語、はっきりいった。
「ほざけ、死にぞこない。麻世を倒して、てめえも倒せば邪魔する野郎は誰もいねえ。同じこった、莫迦野郎が」
 いうなり、梅村は木刀を右手に持ちなおして素振りをした。びゅっと風を切る音が、はっきり聞こえた。やはりこいつは、この木刀をかなり使いこなしている。
 麻世が後ろのポケットから特殊警棒を抜いて、ひと振りした。がちゃりと音がして、警棒は六十センチほどに伸びた。
 得物を手にして二人は向かいあった。
 間合は四メートルほど。
 梅村は木刀を右肩に担ぎ、麻世は警棒を目の前に伸ばした片手青眼の構え。周りの空気がぴんと張りつめた。勝負は一瞬で決まるような気がした。麟太郎は、いつでも飛び出せるように態勢を整える。
 そのとき参道に小さな人影が見えた。
 あれはと麟太郎は、その影を見すえる。
 満代だ。麻世の母親の満代が、この場にやってきたのだ。麻世の顔に驚きの表情が浮びあがった。梅村もびっくりしたようで、満代に向かって声を張りあげた。
「てめえ、何しにきやがった。どこで手紙を盗み見しやがった。クソ女が」
 梅村のコメカミに太い血管が浮きあがるのがわかった。これで、梅村が麻世を抱ける確率はさらに低くなった。満代は梅村の斜め後ろに無言で立った。
「参る」
 麻世が古風な言葉を口にした。
 表情は元に戻っていつもの顔だ。
 麻世がつっかけた。一気に間合をつめた。梅村が肩に担いだ木刀を野球のバットを振るように、麻世の体に向けて叩きつけた。乾いた音が響いた。木刀は警棒ではね返され、梅村の手から離れて宙を飛んだ。
 ここしかない。麟太郎は得物を失った梅村の体に向かって飛びこんだ。だが、麻世の動きのほうが速かった。
 警棒が梅村の脳天に向かって飛んだ。
 そして額のすぐ上、三センチほどのところでぴたりと止まった。麻世は梅村を殺さなかった。麻世の表情は澄んでいた。麟太郎が梅村の体に体当たりをしたのは、その直後だった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)