連載
下町やぶさか診療所
第八章 麻世の決断・後(最終回) 池永 陽 You Ikenaga

 その瞬間、麟太郎の目が不思議な光景をとらえていた。あれは満代だ。満代が両手に何かを握りしめて突進してくる。しかも、満代は固く両目を閉じている。両目を閉じて、もつれあった梅村と麟太郎に向かって突進してくるのだ。
 二人の体に満代がぶつかった。
 梅村が叫び声をあげた。
 梅村の脇腹に出刃包丁が半分ほど突き刺さっていた。
「お母さん――」
 麻世が悲鳴をあげた。
 血が地面を赤黒く染めていった。
「麻世、救急車だ」
 麟太郎の声に、麻世はポケットからケータイを取り出してプッシュする。満代は地面に座りこんで放心状態だ。麟太郎は上衣を脱いで、傷口に押しあてる。
「じいさん、どんな塩梅だ」
 電話をかけ終えた麻世が、うめき声をあげる梅村の体を覗きこむ。
「傷は深くはない。だが、出血が多すぎて、予断は許さない」
 必死に傷口に上衣を押しつけながら、麟太郎の目は放心状態の満代に注がれる。
 なぜ満代は、両目を閉じて突っこんできたのか。あれでは梅村と自分、どちらに包丁が刺さるか判断はつかないはずだ。それとも満代は、どちらに刺さってもいいとでも……わからなかった。いくら満代が心を病んでいたとしても。
 ただひとつ確実にいえることは、麻世が人殺しになることは避けられたということだ。これがいちばんの収穫だった。
「麻世、お前は大丈夫か。何ともないか」
 叫んだ。
「うん、私は大丈夫」
 いいながら麻世は満代に近づいた。
 放心状態の体を抱きしめた。
 このとき、何の脈絡もなしに麟太郎の脳裏に夏希の顔が浮んだ。日曜日に夜逃げをするといっていた夏希だったが、昨日の夜、店は開いていて、夏希は嬉しそうに店内を飛びまわっていた。
 それはそれでよかった。
 すべてが何とか収まった。
 だが、あの満代の閉じた目は……。
 まったくわからなかった。
 救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
「クソ野郎、お前も頑張れ」
 梅村の耳許(みみもと)で麟太郎は大声をあげる。
「きたっ」
 麻世の言葉と同時に、救急車が参道脇にぴたりと停まった。

(了)



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)