よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一話(前編) 疑 惑

池永 陽You ikenaga

 正月休みが終った。
 長期の休みのあとだったため、診療所のなかは朝から患者でごった返していた。
 真野麟太郎(まのりんたろう)は胃の異状を訴える、今日最後の患者の体に聴診器をざっと当ててから、
「ただの食いすぎだよ、親方。正月休みで、ろくに動きもしないで、食っちゃ寝を繰り返していたため、胃腸がストライキをおこしたんですよ。年寄りは年寄りらしい地道な毎日を送らないとね、徳三(とくぞう)さん」
 いかにも嬉(うれ)しそうな声で言葉をかける。
 六十四歳の麟太郎より年はずいぶん上だが、徳三は若いころからの喧嘩(けんか)友達で江戸風鈴の職人である。
「年寄りが年寄りらしい毎日を送ってたら気が滅入っちまって、三途(さんず)の川がすぐそこに見えてくらあ。だから俺は無理をして大飯を食らってんだよ。それが道理というもんじゃねえですかい」
 伝法な口調で徳三はまくしたてる。
「大飯は駄目だよ、親方。昔から腹八分目に医者いらずってよくいうけど、俺は八分目じゃなく、七分目ぐれえがちょうどいいと思ってるよ。ましてや、親方のように年寄りで、なおかつ鳥ガラのような体なら六分目。それで充分に生きていけるはずだけどね」
 今度は嬉しそうな顔で、徳三の肋(あばら)の浮いた体を見つめる。
「六分目って、おめえさん。そんなんじゃあ、イザってときに男が立たなくなるんじゃねえのか。下町育ちの俺っちにしたら、そんな不様なことはよ」
 慌ててまくりあげていたシャツを元に戻し、吼(ほ)えるような口調で徳三はいった。
「イザというときねえ……」
 麟太郎はぼそっといい、今日の勝負は自分の勝ちだと誇示するような笑みを浮べて後をつづける。
「医学的にいえば腹がくちくなった状態よりも多少の飢餓状態のほうが――」
 といったところで、
「実をいうと、俺は前から気になっていたことがひとつあってね」
 突然徳三から待ったがかかった。どうやら医者を相手に健康談議をくり広げても勝てるはずがないのを悟ったようだ。
「ここの表にかけてある、真野浅草診療所と書かれた看板だがよ。あれが長年の風雨に晒(さら)されてほとんど読めなくなっている。人の命を預かる医院としては、あれはちょっとまずいんじゃねえですかい。看板を目当てに訪ねてくる患者がいねえとも限らねえしよ」
 しごく真っ当なことを徳三は口にした。
 大正ロマン風とでもいうのか、診療所の入口には丸い灯(あか)りをのせた石造りの門柱が二本立っている。その上に『真野浅草診療所』と書かれた看板がかけてあるのだが、長い年月のために文字はほとんど消えかかっていて、よほど目を凝らさないと判読は不能になっていた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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