よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一話(前編) 疑 惑

池永 陽You ikenaga

「あれは俺も気にかかってんだけど、何しろ面倒――」
 といいかけて、口に出すつもりだった面倒くさくてという言葉の代りに、
「なかなか忙しくて、そこまで手が回らなくてよ」
 こんなことをいってごまかした。
「しかしよ。何たってここは人の命を預かるところだからよ。ここはやっぱりきちんと書き直すのが筋ってもんでござんしょう」
 勝ち誇ったように徳三は口にして、
「ちょっと離れたところから見ると、真野って文字が俺には阿呆、、っていう字に見えてしようがねえんだがよ」
 とんでもないことをいい出した。
「いや、いくら何でも真野が阿呆に見えるわけがないでしょう。それは徳三さんの偏見以外の何物でもないような気がしますが」
 唇を尖(とが)らせていう麟太郎に、
「偏見じゃなくて感性っていってもらいてえな。長年江戸風鈴を守りつづけてきた、下町職人のよ」
 分別くさい顔で徳三はいう。
「そんなところに感性っていう言葉を持ち出されてもなあ……」
 困惑の表情を顔一杯に浮べて、さてどういい返したらいいものかと麟太郎が考えをめぐらせていると、
「大(おお)先生、先ほど若先生が急にいらして、母屋のほうに行ってるからと、おっしゃってましたよ」
 傍らに立っていた看護師の八重子(やえこ)が助け船を出すようにいった。
 富山生まれの八重子は麟太郎が物心のついたころから、この診療所にいるという古参兵である。
「潤一(じゅんいち)がきてるのか。それならすぐに行ってやらねえとな――そういうことだから、徳三さん、今日はこれで」
 ほっとした面持ちで徳三を窺うと、満足げな表情が顔に浮んでいる。
「なら、今日も俺の勝ちということで」
 ゆっくりと丸イスから腰をあげ、
「じゃあな、やぶさか先生」
 掌(てのひら)をひらひらさせて背を向けた。
「あの野郎、本人を前にしてぬけぬけと、やぶさかなどと」
 口のなかだけで呟(つぶや)くようにいう。
「相変らず、大先生も徳三さんも意地っ張りですねえ。いくら下町育ちだといっても、これでは子供同然ですね」
 呆(あき)れたように八重子がいった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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