よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一話(前編) 疑 惑

池永 陽You ikenaga

 母屋に行くとテーブルの上に紙袋から出した下町名物の稲荷鮨(いなりずし)を広げて、潤一もそれを口にしていた。
「診療所始めの今日は忙しくて、飯を食う暇もないだろうと思って買ってきた」
 稲荷鮨を勧める潤一の顔から壁にかかっている時計に目を移すと、なんと三時近くになっている。あと三十分もすれば、午後の診療が始まる時間だ。
「そう思っているのなら、お前、もっと早くにきてくれれば手助けになって俺も楽ができたのに」
 非難めいた言葉を口に出して、麟太郎も稲荷鮨に手を伸ばす。
「大学病院勤務の俺に、そんな時間の余裕はないよ。今日もあと三十分もしたら病院に帰らなくちゃならない。ゆっくりこられるのは非番のときぐらいだよ」
 稲荷鮨を喉に押しこみながら潤一はいう。
「そうか、そうだな――いや、今まで徳三さんとやりあってて、それでちょっと頭に血が昇ってというか。いや、悪かった」
 そういって麟太郎は、表の看板に始まる徳三とのやりとりの一部始終を潤一にざっと話して聞かす。
「ああ、あれはそろそろ書きかえたほうがいいですね。今回ばかりは徳三さんのほうに理があるようですね。やぶさか云々(うんぬん)の件は別にして」
「それはまあな」
 仏頂面をする麟太郎に、
「そうだ。いっそ徳三さんが口にしたように、下町やぶさか診療所っていうのはどうですか。かなり親近感が湧くような気がしますが」
 潤一が思いきったことをいった。
 やぶさかとは、どういった加減か診療所の前だけ緩やかな坂になっているため、それを近所の連中が親しみをこめて、やぶと坂を合せて呼び始めたものだった。
「お前なあ……」
 麟太郎が情けない声を出すと、
「悪い、単なる冗談だから。深い意味はまったくないから、聞かなかったことにしてくれ、親父(おやじ)」
 潤一はすまなそうにいって、顔の前で手を振った。
「単なる冗談か……」
 ぽつりと麟太郎は呟いてから、
「あの真面目一方だったお前が、こういう冗談がいえるようになったんだな」
 しみじみとした調子でいった。
「いろいろあったから、俺もかなりの勉強をさせてもらって、少しは大人になってるはずだから、実年齢ぐらいの」
 潤一は二十九歳である。
「実年齢なあ――」
 疑わしい目を向けながら、
「その大人になったお前は、あんなことがあってもまだ、麻世(まよ)が好きか。お前とはひと回り以上年の違う、高校二年生の麻世のことが」
 詰問するようにいった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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