よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一話(前編) 疑 惑

池永 陽You ikenaga

「何があろうと俺は、あの問題児が好きだ。その思いに変りはない。といっても振り向いてもらうのは至難の業だろうけど」
 はっきりといったが、語尾だけは掠(かす)れていた。
「大人の分別とはほど遠いが、立派な心がけだと思う。下町の男はそうでなければいかんと俺も思う」
 正直麟太郎は嬉しかった。潤一の選ぶ道は茨の道になるだろうが、大きな筋が一本通っている。にしても、肝心の麻世が潤一を選ぶかどうかだが。どう贔屓目(ひいきめ)に見ても可能性はゼロに近い。今までだって潤一は麻世にまったく相手にされなかった。しかし、男と女のあれこれなど、どこでどうひっくり返って、どうなるのかは。
 そんな思いで潤一を見ると両肩を大きく落して、情けなさそうな顔で麟太郎を見ていた。まるで打ちすてられた子犬の顔だ。やっぱり無理かと思ったところで潤一が声をあげた。
「ところで麻世ちゃんの様子は、相変らずなのか、親父」
 子犬の顔にほんの少し覇気が宿った。
「相変らずだな。普段のふるまいは、あの事件の前とまったく同じで何の変化もない。麻世という女の子は、よほどの精神力の持主だという他はない。ただ――」
「ただ、何だ、親父」
 潤一が身を乗り出した。
「近頃外出が多くなった。前のようにどこかで喧嘩でもしているのか、しょっちゅう顔に痣(あざ)をつくって帰ってくる」
「元のヤンキーに、戻ったということなのか」
 叫ぶような声を潤一はあげる。
「どこへ行ってるのか今は遠慮して訊(き)いてねえから、それはわからねえが、要するにあの事件で麻世は何か大きな問題を抱えこんだ。しかし、その問題の答えがなかなか見つからなくて、麻世は苛立(いらだ)っている。そういうことだ」
「大きな問題って、それは何なんだ。それを麻世ちゃんに質(ただ)してみたのか、親父は」
 潤一はさらに身を乗り出した。
「訊いた――しかし、あの頑固者は、今はまだ話せないと。それだけいって首を左右に振った。こうなったらもう駄目だ。誰が何をいおうが麻世は金輪際口を開かねえ。それぐらいのことはお前もわかってるだろう」
 嗄(しわが)れた声を出す麟太郎に、
「わかっている。しかし、今はまだ話せないということは、いずれ親父には話すってことだろう。聞いたらすぐに俺に教えてほしい。何の力にもなれないかもしれないけど、聞いたらすぐに」
 潤一は麟太郎に向かって頭を下げ、額をテーブルにこすりつけた。
「わかった」
 と麟太郎が強い口調でいったとき、玄関の扉が開く音が聞こえた。どうやら、麻世が帰ってきたようだ。潤一の体に緊張が走って硬くなるのがわかった。
「あっ、おじさん、きてたんだ」
 居間に入ってきた麻世は何の屈託もないような声をあげた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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