よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一話(前編) 疑 惑

池永 陽You ikenaga

「診療所始めの今日は患者でごった返して飯も食えないだろうと思って、片手でつまめるオイナリさんを買って陣中見舞いにね」
 硬い顔を何とかほころばせて、潤一はそれでもよく通る声でいう。
「そういうことか。悪い、じいさん。それならそうで朝のうちにいってくれれば、握り飯ぐらいはつくったのに」
 麻世はぺこっと頭を下げて、
「駄目だな私は、気配りがまったく利かないから、男同然だから、がさつだから」
 はっとするほど可愛い顔を顰(しか)めた。が、どんな顔をしようが可愛さは隠しようがない。正真正銘の美少女──世間での麻世の評価はそうなっているらしいが、麟太郎は違う。可愛らしさより、正統な美しさ、しゅっとした美人顔が麟太郎は好きだった。たとえば『田園』の夏希(なつき)ママのような。
 そう思いつつ麻世を見上げる潤一を見ると、何となく顔が弛緩(しかん)しているようだ。駄目だこいつは、麟太郎は小さな吐息をもらす。
「麻世ちゃんは男同然なんかじゃない、立派な女の子だ。それもとびっきり可愛らしい女の子だ。だから、握り飯をつくるという言葉だけで充分だよ。その言葉だけで、少なくとも俺は充分に嬉しいよ」
 麟太郎はまた吐息をもらす。今度はかなり大きい。
「駄目だよ、おじさん。女子にそんなふうにいえば、つけ上がるだけで何にもいいことはないよ。駄目なことは駄目って、びしっといわないと。もっとも私は男同然だから、そんなことをいわれてもちっとも嬉しくはないけどね」
 潤一の言葉は一刀両断された。
「じゃあ、びしっといわせてもらうけど」
 珍しく潤一が麻世に反発した。
 とたんに麻世の顔に喜色が走る。
 この麻世という娘――変に誉(ほ)めあげられるより、本当のことをいってもらったほうが喜ぶという妙な性格の持主だった。
「親父の話では、麻世ちゃんは近頃外出が多く、しかも、しょっちゅう顔に痣をつくって帰ってくるということらしいけど、また前のようにヤンキーに戻ったんじゃないだろうね」
 麻世は元ヤンキーだった。
 それもバリバリのヤンキーで、喧嘩のほうも相当な強さを誇っていたらしく、仲間うちではボッケン麻世と呼ばれていた。
「喧嘩はしてないよ。喧嘩はよほどのことがない限りしないときめたから。だから、そのための外出じゃないよ」
 抑揚のない声でいった。
「じゃあ、どこへ行ってるんだよ。顔に痣までつくって」
 声を荒げる潤一に、
「林田(はやしだ)道場だよ」
 ぼそっと麻世はいった。
 この一言で麟太郎はすべてを納得した。
 喧嘩をしてストレス解消をする代りに、麻世は道場へ行って門弟たちを相手に打ち合い、殴り合いをしていたのだ。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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