よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一話(前編) 疑 惑

池永 陽You ikenaga

 林田道場の流派は柳剛流(りゅうごうりゅう)――古来より伝わる実戦剣法で、剣術の他に組打技も伝わっていた。当て身、蹴り、投げ、関節……何でもありの喧嘩技が特徴の総合武術だった。
 しかも、この道場は林田という老人が道楽のためにやっていたようなところで月謝はタダ。麻世はこの今戸(いまど)神社裏にある林田道場に小学五年のときから、林田が病で臥(ふ)せる高校一年まで毎日のように通っていた。
 道場に通おうと思った理由は苛(いじ)めだった。
 麻世は小学校の四年生頃から、毎日苛められるようになった。原因は麻世の美しさに対する嫉妬と貧しさ。麻世は母親と二人きりの安アパート暮しだった。
 麻世は柳剛流の荒稽古に、歯を食いしばって耐えた。かなりの素質があったようで腕はめきめき上達し、校内で麻世を苛める者はいなくなった。その代り、まともな連中は麻世の前から去り、寄ってくるのはヤンキーたちばかりになった。
 そんな生活が去年の初夏までつづいた。
「しかし、麻世」
 と麟太郎は首を傾(かし)げた。
「以前は道場に行っても顔に痣などをつくってくるのは稀(まれ)だったが、近頃はしょっちゅう痣をつくってくるような気がするが。現に今日もよ」
 よく見ると左目の周りが、うっすらと黒っぽくなっているのがわかる。
「前は道場でいちばん強かったのは、私だったから。もちろん、林田先生を除いての話だけどね」
 嬉しそうに麻世は薄い胸を張った。
「ええっ!」
 潤一が素頓狂な声を出した。
「麻世ちゃん、林田道場でいちばん強かったのか。だけど道場の門弟といったら、ほとんど男なんだろう」
 まくしたてるような声を出した。
「ほとんどじゃなくて、全部男。さすがにガタイのでかいマッチョな男と、関節の逆の取り合い、投げの打ち合いをやるときは分が悪くなるけど、手に木刀を持てば」
 弾(はじ)けるような笑顔を見せた。
「木刀を手にすれば、いちばん強いのか」
 潤一の声は裏返っていた。
「そうだよ、高校一年のころから、そうなったみたいだな」
 また薄い胸を張る麻世を見ながら、麟太郎も胸の奥で唸(うな)る。しかし、その麻世がしょっちゅう痣をつくって帰ってくるということは、ひょっとしたら。
「その麻世が痣をつくってくるということは、もっと強い男が……」
 低すぎるほどの声で麟太郎はいう。
「そう、現れたんだよ。米倉彰吾(よねくらしょうご)という人で、私が中学二年のときまで、あの道場にいたんだけど、仕事の都合で関西のほうに行ってしまって。でも、その人が先月からまた戻ってきて、私の相手をしてくれるようになったんだ。といっても」
 麻世の表情に悔しさのようなものが混じる。
「組打技でも打撃技でも、そしてメインとなる剣のほうでも、私より断然強い――まあ、ゆくゆくはあの道場を継ぐ人だから、仕方がないといえばそうなんだけど」

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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