よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一話(前編) 疑 惑

池永 陽You ikenaga

「ということは、その米倉さんていう人は林田先生のお身内ということなのか」
 麟太郎が口を挟むと、
「身内じゃないよ。本物の武術の道場は身内とか血縁じゃなくて、いちばん強い者が跡を継ぐ。ヤクザの世界と同じだよ――だから私の夢は米倉さんに三本のうち一本でもいいから勝ちを取ること。まあ、無理かもしれないけどね」
 いいながら麻世の顔は嬉しそうだった。
「あの麻世ちゃん。ひとつだけ教えてほしいんだけど、その米倉さんという人の年はいくつなんだろうね」
 恐る恐る潤一が訊いた。
「確か……」
 麻世は宙を睨(にら)みつけてから、
「二十九歳。おじさんと同い年だよ。タイプはまったく違うけどね」
 この一言で潤一の体から力が抜けた。どうやら潤一はこの米倉という男をライバル視しているようだ。しかし麻世の話を聞く限り、どこからどう見てもその男のほうが有利ということになる。
 小さな沈黙が流れた。
「もう、やけくそで、麻世ちゃんに重要な質問があるんだけど」
 沈黙を破って潤一が奇声をあげた。
 ぽかんとした表情で、麻世が潤一を見た。
 麻世は色恋の話にはまったく興味がないというか鈍感というか、むろん潤一の気持に気づいているという兆候などは爪の垢(あか)ほども見当たらない。
「例の事件で麻世ちゃんは、何か途方もない大きな問題を抱えてしまったと親父はいってたけど、それがいったい何なのか教えてくれないだろうか」
 まさに、やけくその質問だった。これに対して麻世はいったい、どう答えるのか。麟太郎は凝視するように麻世の顔を見る。
「無理――」
 麻世は短く一言で答えた。
「なぜ無理なんだ。教えてくれれば麻世ちゃんだけでなく、俺や親父も加わってその問題に立ち向かうことができる。いい考えが浮ぶかもしれない」
 珍しく潤一は食い下がる。
「これは私の個人的な問題だから。その結果、私が出す答えも極めて個人的なものだから。そして私はその疑惑に対する答えをまだ出してないから。私なりの答えが出たら必ずじいさんに話す。これだけは、はっきり約束するから」
 そういって麻世は唇をぎゅっと引き結んだ。
「じゃあ、私、夕食をつくる時間まで二階にいるから」
 麻世は力なくいって、麟太郎と潤一の前から離れていった。
「麻世ちゃん、確か疑惑っていいましたよね。あの事件に疑惑を覚えなきゃいけないことってありますか。かなり単純な事件で、俺には疑惑という言葉が入りこむ隙など見当たらないような気がしますが」
 溜息まじりにいう潤一の言葉に、
「同感だ。麻世がいったい何を考えているのか。俺にもまったく見当がつかない」
 こう答えるより、麟太郎には術(すべ)がなかった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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