よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一話(前編) 疑 惑

池永 陽You ikenaga

 あの事件とは、ひと月半ほど前に今戸神社の境内で繰り広げられた、麻世と梅村(うめむら)という男の生き死にを懸けた勝負のことだった。
 梅村は麻世の母親である満代(みつよ)の情夫だったが、麻世の美貌に目がくらみ、何とか自分のものにしようと隙を窺った。母親の満代もその動きを察してはいたが、梅村の過剰な暴力を恐れ、じっと耐えるだけで見て見ぬふりを決めこんだ。
 そして麻世はふいをつかれ、梅村に失神させられて体を奪われた。麻世はその場で母親のアパートを飛び出し、あちこちを転々としたのちに麟太郎の診療所にやってきた。
「自殺に失敗した」
 と麻世は手首の傷を見せ、そしてこれまでの顛末(てんまつ)のすべてを麟太郎に話した。
「居場所がないんだ」
 麻世のこの言葉を聞き、麟太郎はお手伝いさん代りという名目をつくって麻世を診療所に引き取った。
 この後、『やぶさか診療所』では平穏な日々がつづいたが、梅村はまだ麻世を諦めてはいなかった。麻世は麻世で、梅村との一件が精神的外傷(トラウマ)になり、切羽つまったぎりぎりのところまで追いこまれていた。
「あいつの前に立つと心も体も縮んでしまう。動けなくなる。普段の力を出そうとしても出なくなる。あいつが怖くて怖くて、どうしていいかわからなくなる」
 麻世は顔色を蒼白にして、こんなことをいうようになった。そして、
「あいつを殺さないと、私の心が壊れてしまう」
 こんなことも口にした。
 そして麻世は、決着をつけようという手紙を梅村に出し、二人は深夜今戸神社の境内で対峙(たいじ)した。
 麻世に殺人を犯させるわけにはいかない。麻世を説得して、手出しはしないという約束で麟太郎も勝負の場に同行した。
 勝負は一瞬できまった。
 梅村の木刀は麻世の特殊警棒で弾き飛ばされ、次の瞬間、梅村の脳天に向かって特殊警棒が振りおろされた。この渾身(こんしん)の一撃を食い止めるため、麟太郎は梅村の体をかばうように飛びついた。が、麻世の一撃は、梅村の脳天三センチのところでぴたりと止まった。麻世は梅村を殺さなかった。
 変事がおきたのはこの直後だった。
 麻世からの手紙を盗み見て、その場には母親の満代もかけつけていた。満代はもつれあった麟太郎と梅村に向かって突進した。手にしているのは出刃包丁だ。梅村の脇腹に刃の半分ほどが埋まった。
 必死に血止めの処理をしながら麟太郎は救急車の到着を待った。
 麻世は放心状態の満代の体を抱きしめた。
 梅村は潤一の勤める大学病院に運ばれ、満代は殺人未遂の現行犯で浅草署に連行されていった。
 これが、あの夜の事件のすべての顛末といえた。
 この事件のどこに疑惑があるのか。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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