よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一話(後編) 疑 惑・後

池永 陽You ikenaga

 ようやく午前の診療が終って時計を見ると、すでに一時五十分。しかしこれならまだ、田園のランチに間に合う。
 大きく伸びをしてから、看護師の八重子(やえこ)に「それならよ」と声をかけて麟太郎(りんたろう)は白衣を脱ぐ。受付まで歩いて、
「知(とも)ちゃん、一緒にランチに行くかい」
 と窓口に向かって声をかける。
「残念ですけど、私はお弁当でえす」
 いつも通りの声が返ってくるが、今日は、そのつづきがあった。
「それに一緒に行くと、大先生は夏希(なつき)さんの顔に集中できなくなって不機嫌になり、午後の診察に影響が出てきますから」
 ずばりといい放って、窓口の向こうで小さく手を振るのが見えた。
 事務員兼看護師見習いの湯浅知子(ゆあさともこ)は、まだ二十二歳である。
「どいつも、こいつも」
 口のなかだけで呟(つぶや)きながら、麟太郎は診療所の玄関を出て田園に向う。といっても田園は診療所のすぐ隣。昼は喫茶店で夜になると『スナック・田園』に変身するという変った店だった。
 扉を開けてなかに入ると席は九割方埋まっていた。
「いらっしゃい、大先生」
 夏希の愛想のいい声が響いて、ちらりと両目が店の壁にかかっている時計を見る。時間は、ちょうど二時――これが麟太郎には気にいらない。
 昼にしても夜にしても、麟太郎は田園にとっての常連客。その常連客がランチタイムに少々遅れてきたとしても、それはそれで大目に見てもらわないと……。
 そんな言葉を胸の奥で転がしながら奥を見ると、よく知った顔がいた。麟太郎の幼馴染みで同級生の瀬尾章介(せおしょうすけ)だ。麟太郎は一人で食事をしている章介の前に行って腰をおろす。
「おい章介、元気か」
 覗(のぞ)きこむように顔を見ると、すぐに章介も麟太郎に視線を向ける。
「幸い麟ちゃんの世話になるほど、老いぼれてはいないな」
 端正な表情を崩してふわっと笑い、左手で麟太郎と同じように長く伸ばした白髪まじりの髪をかきあげた。気障(きざ)な仕草だったが、章介がやると、どういう加減なのかそうは見えない。
「景気はどうだ、いいのか」
 当たり障りのない話題を口にすると、
「何とか食ってはいけてるが、世間ではどうなんだ。悪いのか。確かに仕事は減ってはいるが、よくわからないな」
 これもよくわからない言葉が返ってきた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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