よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一話(後編) 疑 惑・後

池永 陽You ikenaga

 章介は町内では変った人間で通っていた。
 家業は父親の代からの手描きの看板屋だったが、一人息子の章介は芸大に入り油絵学科を出ていた。卒業後は、十年ほど油絵のほうに専念していたが芽は出ず、結局家業の看板屋を継ぐことになった。両親は十年ほど前に相次いでこの世を去り、今は一人でこつこつと看板製作に励んでいる。章介はまだ独り身だった。
「相変らず、絵の入った看板は描いてないのか」
 さりげなく麟太郎は訊(き)いてみた。
「描いてないな。あれ以来、俺は絵は描かないと決めているから。決めたことを破るわけにはいかないからな」
 あれ以来とは、油絵を描くことを断念したときのことで、その後は筆を折って章介が絵を描くことはなかった。だから、章介の手がける看板は文字をメインにした図柄だけだったが、丁寧な仕事ぶりと斬新なデザインが客から称讃(しょうさん)されているという噂(うわさ)は麟太郎もよく耳にしていた。
「油じゃなくて、ペンキ画でも駄目なのか」
「油だろうがペンキだろうが、描いてできあがれば絵そのもので、変りはないから」
 淡々とした口調でいった。
「義理堅いというか、今どき珍しく律義なんだな、章介は」
 感心したように麟太郎がいうと、
「そんなんじゃないよ。莫迦(ばか)で頑固なクソじじいなだけだよ」
 即座に章介は否定して薄く笑った。
 そんな様子を見ながら、これは下町っ子特有の瘦せ我慢なのかとも思ってみたが、どうもそうではないような気が麟太郎にはした。もう少し崇高なもの――何だか負けたような気分になって麟太郎は少し、しょげた。
「大先生、今日は何にしますか」
 耳許(みみもと)で声が聞こえて顔を向けると、すぐ前に夏希の笑顔があった。
「ランチをよ……」
 と遠慮ぎみにいうと、
「毎度ありがとうございます、今日は大先生ご贔屓(ひいき)の、腕によりをかけたチキンカツですからね」
 笑顔がさらに輝いて、この上ない上等の顔になった。しょげた麟太郎の心が一気に明るくなった。現金なものである。
「じゃあ、すぐに持ってきますから」
 軽く頭を下げて夏希はその場を離れる。
「大分、夏希さんにご執心なようですね」
 二人のやりとりを見ていた章介が、真顔でいった。
「それはまあ、何といったらいいのか」
 図星を指されて、むにゃむにゃと麟太郎は言葉を濁すが、このとき妙な思いが胸の奥に湧いた。
「芸術家の章介に、俺はちょっと訊きてえことがあるんだがよ」
 神妙な顔をしていうと、
「俺は芸術家じゃなくて看板屋だけど、俺にわかることなら何でも答えるよ」
 真顔で章介は答えた。
「夏希ママの顔のことなんだけどよ、芸術家のお前さんの目から見てどう思う。率直なところを聞かせてくれねえかな」
「というと、形として素材を見たときに、どう感じるかということなのか」
 何でもないことのように章介はいう。
「そうそう。その素材としての形だよ」
 思わず麟太郎は身を乗り出す。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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