よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一話(後編) 疑 惑・後

池永 陽You ikenaga

「綺麗(きれい)だな、一言でいって」
 ぽつりと章介はいい、
「両目と鼻を結ぶ三角形は黄金比そのものだし、両頬から落ちこむ三角形もいうことはない。これだけ完璧だと見る者に冷たい印象を与えるんだけど、夏希さんの場合、顎にかかる両頬の角度に柔らかさがあって、うまい具合にそれを緩和している。まさに絶妙の顔という他はない」
 そう章介がいったとき、席の横に誰かが立った。ウェイトレスの理香子(りかこ)だ。
「誰の顔が絶妙なんですか」
 興味津々の表情で訊いてきた。
「それは、グレース・ケリーだよ。モナコの王妃様になった昔の映画俳優だよ」
 とっさに女優の名前を出してごまかすと、「何だ」といって理香子は食後のコーヒーを章介の前に置き「大先生はコーヒー、どうしますか」と訊いてきた。
「食べ終ったころに持ってきてくれ」
 というと「はあい」と大声でいって理香子は離れていった。
 ランチだけならワンコイン――つまり五百円で、これに食後のコーヒーをつけると七百円。とにかく田園のランチは安かった。
「そうか。夏希ママは綺麗で美しいのか。芸術家がそういうのなら、そういうことなんだろうな」
 上機嫌でさかんにうなずくと、
「綺麗ではあるけど、美しさには欠ける」
 妙なことをいい出して「あん」と麟太郎は口を開ける。
「問題なのは夏希さんの、唇。この厚くて大きめの唇が美しさという言葉の足を引っ張っている。だから美しいのではなく、綺麗。そういうことになります」
 美しさと綺麗の違いは正直よくわからないが、確かに夏希の厚くて大きめの唇は顔全体のバランスからいって、少し外れている気がするのも確かだった。
「あれは卑猥(ひわい)だ、卑猥そのものの唇です」
 ぼそっと章介がいった。
 麟太郎にとって衝撃的な言葉だった。艶っぽいとは思っても、まさか卑猥とは……。
「でも、美しさのなかに、その卑猥な唇が乱入してきた夏希さんの綺麗さが、俺は大好きなんだ。あの唇は突出している」
 妙なことをいい出した。
「大好きって、章介、お前、夏希ママが好きなのか」
 恐る恐る口に出してみると、
「ひと月ほど前に、初めてこの店を訪れて夏希さんを見たとき、精神のすべてを吸いとられた。つまり、一目惚(ぼ)れというやつだ。その時点で俺は恋に落ちたようです」
 何でもない口調で章介はいい、テーブルの上のカップに手を伸ばして、コーヒーをごくりと飲んだ。
 そんな様子を眺めながら、それならこいつは正真正銘の恋敵じゃないかと、麟太郎は自分に発破をかける。
「それで章介。お前の気持を夏希ママは知っているのか、くどいてみたのか」
 心配していることを口に出す。
「いい寄ってはいないから知らないと思う。しかし、そんなことはどうでもいい。肝心なのは、俺が夏希ママに惚れているということで、あとのことはすべて瑣末(さまつ)なことだから」
 あとのことはすべて瑣末なこと……麟太郎には、どうにも章介のいうことがよく理解できない。これだから芸術家というのは始末が悪い。それとも、
「章介。お前、女に惚れるのは初めてか。今まで女を好きになったことはないのか」
 失礼だとは思ったが、胸をよぎった疑念を素直に口にした。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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