よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一話(後編) 疑 惑・後

池永 陽You ikenaga

「ずっと若いころ。それこそ命を懸けた恋をしたことがある。相思相愛で死ぬほど好きあっていたが俺たちには結婚できない、ある事情があった。だから」
 すっと口を閉じる章介に、
「結婚できない、ある事情って何なんだ」
 できる限り優しく訊いた。
「それはいえない、相手に迷惑がかかることでもあるし。とにかく俺はその女と別れ、そして二度と恋はすまいと密かに決心した。そういうことです」
 章介の話が一区切りしたところで、夏希がようやく麟太郎の料理を運んできた。
「ごめんなさい、大先生。ちょっとランチのお客がたてこんでいて、大先生のは一番最後になってしまいました。常連中の常連の大先生なら、笑って許してくれるだろうと思って」
 いいわけの言葉を右から左へと聞き流し、麟太郎の目は夏希の唇を凝視する。章介が卑猥だといった厚くて大きめの唇だ。だが、麟太郎には卑猥さよりは魅力的という言葉のほうが似合うような。芸術家と凡人の違いというより仕方がなかった。
「じゃあ、大先生。終るころにコーヒーを持ってきますから」
 夏希は食べ終えた章介の食器をトレイに移し、さっさとその場を離れていった。その後ろ姿を見ながら麟太郎は、面白いことを思いついた。
「章介、うちの診療所にいる麻世(まよ)という女の子を見たことがあるか」
「麟ちゃんの遠縁にあたる、かなりの美形だといわれている若い子だな――遠くから道行く姿を一、二度見たことはあるが、すぐ近くではまったくないな」
 怪訝(けげん)な面持ちで章介は答えた。
「それなら一度、すぐ近くでその麻世の顔をじっくり見てみねえか。芸術家の立場から夏希ママと較べて、どっちが綺麗なのか、どっちが美しいのか正確な判断を下してくれねえかな」
 子供じみた発想だったが、夏希の唇を卑猥だといいきった章介が麻世の容姿をどう見るか、麟太郎はむしょうに知りたかった。
「それは無理だ」
 すぐさま章介は言葉を返した。
「俺は病院というところが性に合わない。病院のあの独特の臭いを嗅ぐと気持が落ちこんで、胸が悪くなってくる。だから俺は、大人になってから病院というところへは一度も行ったことがない」
 なぜか叫ぶようにいう章介を見ながら、そういえばこいつは一度も自分の診療所に顔を見せたことがないことに麟太郎は気づく。
「別にうちの診療所にこいとはいわねえ。とにかくどこかで、うちの麻世に会ってくれれば、それで事はすむし、時間もかからねえ」
 なだめるようにいうと、
「それなら、可能かもしれないが」
 と曖昧な返事をして、カップに残っているコーヒーを一気に飲んだ。
「じゃあ、麟ちゃん。俺はそろそろ帰って仕事をするから」
 それだけいい、伝票をつかんで立ちあがった。
「章介、夜のほうも、ここに顔を出すのか」
 背中に声をかけると「たまに」という言葉が返ってきた。後ろ姿ではあったが章介は長身で、すらりとした体型をしていた。恋敵として侮れないものを覚えたが、あの変人ぶりでは――。
 麟太郎は大きな手で膝をとんと叩(たた)き、箸を手にしてチキンカツと向き合う。口のなかに放りこんで素早く咀嚼(そしゃく)しながら、昨日の一件を反芻(はんすう)する。梅村(うめむら)とのことだ。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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