よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一話(後編) 疑 惑・後

池永 陽You ikenaga

 潤一(じゅんいち)と一緒に病室に入ると、梅村はベッドの上半分を起こして背中をもたせかけていた。
「久しぶりだな、梅村さん」
 麟太郎が声をかけて近づくと、睨(にら)むような目を梅村は向けた。
「どうやら退院も近づいてきたようなので、今日はあんたと話し合いをするつもりでここにきた」
「話し合いだと。俺とてめえが何を話し合うっていうんだ。ふざけたことをいうんじゃねえぞ。よってたかって、みんなで俺をこけにしやがって」
 吼(ほ)えるような調子でいうが、さすがに大声は出さない。ここは病院のなかだという最低限度の分別は、いくら梅村でも持ち合せているようだ。
「よってたかってとは、いったい誰のことをいってるんだ」
 麟太郎が凛(りん)とした声を出す。
「てめえと麻世と、俺をこんな目にあわせた、クソババアの満代(みつよ)にきまってるだろうが」
 憎々しげにいう梅村に、
「その満代さんだが、諸々(もろもろ)のことを考えてみると不起訴になる公算が大きいようだな」
 麟太郎はさらりといった。
 浅草警察署に殺人未遂の現行犯で逮捕された満代は精神的な打撃が大きく、とても正常な尋問には耐えられないということで、都内の精神科の病院に収容され治療を受けていた。
 症状が改善の方向に進めば、検察官の命令によって精神鑑定が行われることになり、犯行時の責任能力の有無が詳細に調べられる。その結果、心神喪失、または心身耗弱と認定されれば不起訴処分、あるいは裁判になったとしても刑は軽減され、満代は適切な治療を受けて社会復帰を目指すことになるはずだ。
「満代が不起訴だと、あの女は俺を殺そうとしたんだぞ。そんな莫迦げた話があってたまるか」
 唸(うな)り声を梅村はあげた。
「そうはいっても刑法の第三十九条には、心神喪失者の行為は、罰しない。または、心身耗弱者の行為は、その刑を減軽すると、ちゃんと記されているから仕方がない」
「何をいいやがる、満代は心神喪失者なんかじゃねえ。あいつは確実な殺意を持って俺に包丁を突き立てたんだ」
 麟太郎を睨みつける目の光が強くなった。
「満代さんにそうさせたのは、あんたの暴力的な支配と恫喝(どうかつ)――ここで、ぎゃあぎゃあ騒ぎ立てると、あんたのほうが傷害罪で起訴されることになりかねんぞ」
 麟太郎のこの言葉に、梅村は口をつぐんで黙りこんだ。
「とにかく」
 よく通る声を麟太郎は出してから、
「その件は司直の手に任せておけば、何らかの結論は出る。我々はそれに従えば、それでいい。問題は警察からも病院からも解放された後の、あんたの身の振り方だ。その話し合いに俺たちは今日きたんだ」
 厳かな声で梅村にいった。
「身の振り方とは、どういう意味だ。俺はこれからもあのアパートに居据って、麻世を狙いつづける、完全に自分の物にするためにな。それに、強姦致傷の証拠というのは何だ。そんなものがあるはずねえだろうが」
 獣のような目で麟太郎を見た。梅村はこんな状況に陥っても、まだ麻世の体に執着しているのだ。隣に立っている潤一をちらっと見ると、青ざめているのがわかった。
「証拠の件は後だ――」
 麟太郎は投げつけるようにいってから、
「麻世は強いぞ。また以前のように不意打ちを食らわせるつもりか」
 低すぎるほどの声を出した。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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