よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一話(後編) 疑 惑・後

池永 陽You ikenaga

「わかったかと、俺は訊いている」
 麟太郎が催促の言葉を出した。
「わかった……」
 蚊の鳴くような声で梅村はいった。
「もしあんたが約束を破って浅草に舞い戻ってきたときは、そのときは麻世には気の毒だが、すべてを公にしてあんたを刑務所にぶちこむ。覚悟しておくといい」
 短い沈黙のあと、今度は潤一が声を出した。
「傷の推移は順調なようだが、ひとつ懸念のある数字が出ている。十二指腸に排出する胆汁の数値に、ばらつきがあるような気がする。もしこれが常態ということになれば、胆汁瘻(たんじゅうろう)の恐れがあるとして手術をしなければならない。俺の診立てではその可能性は強いと思っている」
 梅村が恐る恐るといった調子で潤一を見た。
「漏れ出た胆汁を排出するためのドレナージチューブを取りつけるための手術だ。もしこれでも駄目な場合は、残念ながら胆嚢(たんのう)を半分ほど切り取ることになる。大変な手術で体力も落ちることになるが仕方がない――満代さんの切っ先が思いの外、深かったということだな。以上だ」
 これだけのやりとりをして、麟太郎と潤一は梅村の前を離れた。扉の閉めぎわ、ちらっと梅村の様子を窺うと泣き出しそうな表情をして、ぼんやり宙を見つめていた。
 これでこの件は、ほとんど落着だった。
 麟太郎が一番心配したのが、この事件に関するマスコミの扱いだった。
 事件の直後、麟太郎は馴染みの刑事部長に会い、何とか麻世の名前が出ないように頼みこんだ。事件の全貌をすべて話し、麻世がまだ未成年であることを考慮して、簡単な警察発表ですましてくれるように懇願した。名前を出せば麻世の気性からいって、命を絶つことも考えられるとまでいった。
 その甲斐があって、新聞各紙の見出しはおおむね『痴情の果ての刃傷沙汰――』こんな表現にとどめられた。
 記事の内容も深夜今戸(いまど)神社の境内で、内縁の妻らしき女が男を刺して重傷を負わす。動機は痴情のもつれと見られ、浅草警察署が詳細を捜査中といった簡単なもので、満代の名前と梅村の名前は出たものの麻世はもちろん、麟太郎の名前も出なかった。
 同じ夜、都内で十軒以上の民家に火をつけて回り、死者も出ているという連続放火犯が逮捕されたという大きなニュースがあったのも幸いしたようだった。
 その後、満代の事件の続報もなく、この一件は周囲の誰にも知られずにすみ、麟太郎は胸をなでおろした。
 あとは満代の処分がどうなるか。
 それだけが残された。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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