よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第一話(後編) 疑 惑・後

池永 陽You ikenaga

「私の持っている、疑惑……」
 絞り出すような声を麻世はあげた。
「そうだ。こうなったからには、そろそろ、その疑惑というのを話してくれてもいいころじゃないかとな」
 麟太郎は正面に座っている麻世の顔を、真直(まっす)ぐ見つめた。
 どれほどの時間が過ぎたのか。
「いいよ、話しても」
 低すぎるほどの声で麻世はいった。
「あのとき……」
 苦しそうな声を麻世はあげた。
「お母さんが包丁を突き立てたかったのは、本当に梅村のクソ野郎だったのか。実際に狙ったのは、じいさんのほうじゃなかったのか。この疑いが、どうしても私の頭から離れようとしなくて」
 麻世の言葉に麟太郎は胸の奥で「あっ」と叫んだ。あの瞬間、麻世と同じような疑念をわずかではあったけれど、麟太郎が持ったのも確かだった。
 あの瞬間――。
 打ちおろされる麻世の特殊警棒を防ぐために、麟太郎は梅村に飛びつき、二人はもつれあって転がった。そのとき、包丁を握りしめた満代が突進してきた。麟太郎の背筋が凍りついた。満代はひょっとしたら自分を……そう思ったのは事実だった。
 だが包丁は梅村の脇腹に半分ほど埋まり、麟太郎は無傷で事無きを得た。しかし、満代は本当に自分ではなく梅村を狙ったのか。この疑問は胸の奥にくすぶりつづけた。
 満代が突進してきたとき麟太郎と梅村はもつれあっていたのだ。と、なると――いくら考えても答えの出ない問いだった。満代から、直接本心を聞き出さない限り……。
「実をいえば」
 嗄(しわが)れた声を麟太郎は出した。
「俺の胸にもその疑念は、ずっとくすぶりつづけていた。むろん、麻世ほどではないが」
 麻世は嘘の嫌いな娘(むすめ)だった。
 どんなに辛くても悲しくても、本当のことを知りたがる娘だった。だから麻世に嘘は通じない。麟太郎は腹を括(くく)って、事実をありのまま麻世に話した。
「じいさんも、そう思ったのか」
 話を聞いた麻世が叫んだ。
「思ったのは事実だが、あの状況でそんなことを満代さんが」
 低い声でいう麟太郎に、
「あの人は梅村のクソ野郎に、のぼせあがっていた。それを考えれば、じいさんを狙ったというのも充分に納得できる」
 満代の呼び方がお母さんから、あの人に変っていた。
「いずれにしても、満代さんが正気に戻らない限り、事実は闇のなかでわからない。そして俺は、事実が麻世のいう通りだったとしても水に流して――何といっても満代さんは暴力と恫喝で梅村に洗脳されていたはずだから。そこのところをよく考えてだな」
 できる限り優しい口調でいった。
「いくら洗脳されていたとしても、やっていいことと悪いことがある。人間であるのなら、そこのところだけはわかるはず」
 人間であるのならと麻世はいった。
「じゃあ、麻世は」
 喉につまった声を麟太郎はあげた。
「もしあれが、じいさんを狙った包丁だとしたら、私は絶対にあの人を許さない。法律は許したとしても、私はあの人を」
 麻世が吼えた。
 吼えながら麻世の目は潤んでいた。
 麟太郎は大きな吐息をもらした。
 放心状態だった満代の顔が胸に蘇(よみがえ)った。
 そして満代は、ふわっと笑ったのだ。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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