よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第二話(前編) 女を見たら・前

池永 陽You ikenaga

 表情に一瞬、翳(かげ)りが走ったような。
 ささいなことだとすませてしまえば、それで片づくことだったが妙に気になった。今までに一度も見せたことのない、恭子(きょうこ)の表情だった。
「恭子さん、本当に薬だけでいいのか。俺には何だか心配事がありそうな様子に見えるんだけどよ」
 思いきって口に出して訊(き)いてみた。
「いえ、何でもありませんから。いつもの偏頭痛ですから、お薬の処方箋だけ書いてもらえれば」
 恭子はさらりといって、顔に笑みを浮べる。いつもの愛想のいい顔だ。笑うと丸顔の両頬にエクボができ、恭子の年齢を五つほど若く見せた。佐原(さはら)恭子は今年、ちょうど四十歳である。
「前にもいったように頭痛というのは内臓のほうからきていることもあるし、脳のほうからきていることもあるからな。大事にならないうちに、一度じっくり検査をしてみるのもいいんじゃないか」
 できる限り優しい声でいうと、
「あら、大先生」
 恭子は顔中で笑った。両頬にエクボがくっきりと刻まれて華やぎ、なかなか可愛(かわい)い顔に見えた。
「私の偏頭痛の原因は、ちゃんと自分でわかっていますから」
 どちらが医者だかわからないようなことを口にした。
「原因がわかってるって、そりゃあ――」
 麟太郎(りんたろう)は座っているイスから、思わず身を乗り出す。
「更年期」
 はっきりした口調で恭子はいった。
「それはちょっと早過ぎるんじゃねえか。確かに三十代の後半から始まる女性もいるが、今までの俺の見立てでは恭子さんが更年期とはとても思えねえ」
 首をひねりながらいう麟太郎に、
「生意気なことをいうようですけど、自分の体は自分がいちばんよく知ってます。悲しいことですけど、仕方がありません」
 恭子は両目を伏せて肩を落した。
 生意気な発言も、恭子のこの仕草によって帳消しになり、不思議に腹立たしさは湧いてこない。恭子の人徳のようなものだ。
「それなら、今後は更年期障害を見越しての対応を考えねえといかんな」
 首を振りながら麟太郎がいうと、
「今のところ、偏頭痛だけですから、大丈夫ですけどね」
 恭子はイスから立ちあがり「どうもありがとうございました」と、丁寧に頭を下げて診察室を出ていった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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