よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第二話(前編) 女を見たら・前

池永 陽You ikenaga

「更年期なあ。だから、表情に翳りが……そういうことか」
 誰にいうでもなく、独り言のように口に出す麟太郎に、
「何をいってるんですか、大先生」
 傍らに立っていた看護師の八重子(やえこ)が凛(りん)とした声をあげた。
「大先生はちょっと見かけのいい女の人を前にすると、すぐ丸めこまれてしまうんですから。普段は的確な診断をしていらっしゃるのに」
 今度は呆(あき)れたような声だ。
「えっ、俺は何か間違ったことをいったか」
 八重子の顔を麟太郎は見上げる。
「恭子さんは、詐病。それに間違いありませんよ」
 とんでもないことを口にした。
「詐病って――病気にかこつけてやってきて俺に愚痴をいいまくり、日頃の鬱憤を晴らしていく、じいさんやばあさんたちと一緒だって八重さんはいうのか」
 呆気にとられた口調でいうと、
「そう、そういうことです」
 平然と八重子はいう。
「しかし、恭子さんは俺に愚痴や泣きごとをいったことは一度もないぞ。いつでも静かに頭痛薬を要求していくだけで」
「大先生に愚痴や泣きごとをいうだけのために、みんなが詐病を口にするわけじゃありませんよ。他の理由だって考えられますよ。たとえば……」
 といって八重子は、やけに真面目な表情を麟太郎に向けた。
「誰かに逢(あ)うために」
 ぽつりといった。
「誰かに逢うためにって……まさか」
 麟太郎の声が裏返った。
「残念ながら、大先生ではありませんので念のため」
「じゃあ、誰だよ」
 ふてたような声を麟太郎は出した。
「甘味処(かんみどころ)、笹屋のご主人の横井(よこい)さん」
 八重子はきっぱりといいきった。
 同じ町内に店を構える『笹屋』の主人の横井照夫(てるお)は今年五十二歳。二十五年ほど前に、笹屋の一人娘である厚子(あつこ)と恋愛関係になり入り婿となって入籍し、夫婦二人で店をきりもりしていた。子供は二人で長男は大学を出て旅行会社に昨年就職し、長女はまだ高校生だった。
「あの横井さんと恭子さんが」
 ぼそっという麟太郎の脳裏に横井の顔が浮びあがる。のっぺりとした特徴のない顔立ちで、強いていえば優しさだけが目立つような男だった。小さいころから消化器系が弱くて虚弱体質だったようで、厚子と結婚してからは、この診療所にもしょっちゅう顔を見せていた。
「店をやっている以上、医院を別にすればそう外に出るわけにもいかないでしょうし、かといって、夜出ていくのも入り婿という立場から簡単ではないはず。そこで二人が考えたのが、この診療所での逢い引き。ということじゃないかと私は睨(にら)んでおります」
 教科書を読むように八重子はいった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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