よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第二話(前編) 女を見たら・前

池永 陽You ikenaga

「確か恭子さんが頭痛だといって、ここへくるようになったのが十カ月ほど前。ということは、そのあたりで二人は恋に落ちたという訳か。横井さんは入り婿ということで日頃のストレスがたまっていたせいもあるだろうし、恭子さんのほうは……」
 ちょっと麟太郎は口をつぐむ。
「バツイチです。私と同じ……」
 あとの言葉を八重子は掠(かす)れた声でいい、そのまま話をつづけた。
「確か実家は八王子のほうだったはずですけど、十五年ほど前に結婚してご主人の仕事場に近いこの町内の中古マンションを購入して結婚生活を始めたものの、五年ほどで別れることに。そのとき、その中古マンションは恭子さんがもらって、ご主人のほうが家を出ていって今に至っている。そういうことですね」
 さすがにこの診療所の主ともいえる八重子は、町内のことに精通している。
「恭子さんに子供はいなかったよな」
「いませんね。ですから、離婚してからはずっと、一人暮し……仕事は確か保険の外交をしているはずです」
 身につまされるのか、八重子はしみじみとした口調でいった。八重子も一人暮しで子供はいなかった。
「一人ぼっちの女性と入り婿の男性が何かの拍子で知り合って意気投合し、やがて恋に落ちた。そんなところか」
「女性ですから甘味処に出入りしていても不思議じゃありませんし、保険の勧誘で知り合ったという可能性もありますね。何といっても、同じ町内に住んでいる二人ですから」
「そして、わずかな時間でもいいので相手の顔が見たいという、中学生のような恋を展開中ということか。微笑(ほほえ)ましいといえば、そうともいえるがな」
 感心したようにいう麟太郎に、
「何を気楽なことを」
 ほんの少し、八重子は声を荒げた。
「二人はそんな気楽な中学生のような恋をしてるわけじゃないですよ。ちゃんとした大人の男と女の関係ですよ」
 噛(か)んで含めるようにいった。
「大人の男と女って――それじゃあ、恭子さんと横井さんは」
「正真正銘、不倫の間柄ですよ」
 はっきり、いいきった。
「何といったらいいのか、わからんが。そんなことが断定できるとは」
 喉につまった声をあげた。
「待合室で隣り同士で座っているところを見たことがあるんですが、包んでいる空気が濃厚なんですよ。あれは絶対に普通の関係じゃありません」
「見ただけで、そんなことがわかるのか」
 首を傾(かし)げる麟太郎に、
「わかりますよ、私も女ですから」
 怒ったような声を八重子は出した。
「大先生も一度、待合室を覗(のぞ)いてみたらいいんじゃないですか。それでもわからなかったら、麻世(まよ)さんに訊いてみるといいですよ。あの子はよく待合室に座ってますから」
 ぴしゃりといった。
 麻世になあと、胸のなかで呟(つぶや)いたとき恭子の顔が浮んだ。あの翳りのある顔だ。あれは不倫に対する罪悪感の表れなのか、それとも別の……あれこれ考えていると、八重子の声が耳に響いた。
「次の患者さん、入れますよ。次は話題の主の横井さんですから、余計なことは絶対にいわないでくださいよ。医者にはいろんな意味での守秘義務がありますからね、大先生」
 諭すような、柔らかな口調だった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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