よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第二話(前編) 女を見たら・前

池永 陽You ikenaga

「ああ、そういえば、麻世ちゃんにひとつ報告が」
 潤一は慌てて口を開き、梅村(うめむら)が胆汁瘻(たんじゅうろう)を発症してドレナージチューブの手術をしたことを麻世に話した。
「もしこれでも駄目な場合は胆嚢(たんのう)を半分ほど切除することになる。いずれにしてもこれでもう、梅村もおとなしくなるはずだ。体力も落ちることになるし」
 そんなことを説明すると、
「その話はじいさんから聞いて、知ってる」
 にべもない答えが返ってきた。
「それにもう、あのクソ野郎が現れたとしても私は怯(ひる)まない。三十秒もあれば、あのクソ野郎を地に這(は)わせることができる。そのために、米倉(よねくら)さんと道場で猛稽古をしてきたんだから。残念ながら、まだ米倉さんには歯が立たないけどいつかは……」
 闘志満々で麻世はいった。
「米倉さんか。いい人が現れてよかったね。本当によかったね」
 投げやりな口調で潤一はいう。
 米倉は潤一が恋敵の最有力候補ときめている、同い年の男だ。
「あっ、それから、お母さんのほうはまだ症状に改善が見られないということで、治癒するまでには時間がかかりそうだから」
 何気ない口調だったが、聞いたとたん、麻世の表情が強張(こわば)るのがわかった。どうやらこのことは、初耳だったらしい。
「待つから私、あの人が正気に戻るまで。戻ったら私は、あの人を」
 低すぎるほどの声でいって、麻世は視線をそっと落した。

 午後の患者があと数人という診察の合間に、八重子が麟太郎の耳にささやくように声をかけた。
「恭子さん、きてますよ。どうやら、いちばん最後に診てもらうつもりですよ」
「えっ、薬を処方してまだ五日しかたってないぜ。いつもだったら、早くても十日は過ぎてから顔を見せるはずだが。横井さんとの間で何かあったんだろうか。そういえば横井さんは今日?」
「午前も午後も、いらっしゃっていません。今日は恭子さん単独です。それに今日は、かなり顔色が悪そうですよ」
 早口でいう八重子に、
「となると、やっぱり何かがあって、それを話そうということになるのか――しかしいったい何を」
 麟太郎は太い腕をくんで考える。
「あの、大先生」
 八重子が上ずった声を出した。
「私たち、大きな勘違いをしているんじゃないでしょうか」
 遠慮ぎみにいった。
「大きな勘違いって、八重さんはいったい何のことをいってるんだ」
 怪訝(けげん)な目を八重子に向けると、
「私たちは恭子さんが横井さんとの不倫に対して悩んでいるときめつけていますが、本当はもっと」
 いい辛(づら)そうに八重子は言葉を切る。
「もっと何だい」
「もちろん、不倫に対する罪の意識はあるでしょうけど、それよりも、もっと差し迫った現実的なことを」
 八重子はじろりと麟太郎を睨みつけるような目で見てから、
「医療界に昔からある格言ですよ。あの、女を見たらという――」
 声をほんの少し荒げた。
「あっ……妊娠と思えか」
 喉につまった声を麟太郎はあげた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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