よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第二話(前編) 女を見たら・前

池永 陽You ikenaga

 女を見たら妊娠と思え――。
 医者の世界で古くからいわれている格言のようなもので、確かに一理はある言葉といえた。それを麟太郎はすっかり忘れていた。もし訳のわからない女性患者がきたら、この言葉をまず思い出すべきだった。
「恭子さんは、妊娠してるんだろうか」
 立っている八重子の顔を見る。
「その可能性は充分あると思います。単に不倫だけなら切迫感はありませんけど、これが妊娠ということになると、ほっておけばお腹はどんどん大きくなっていきます。これにどう対処したらいいのか。といっても、産むか産まないか。対処の仕方はふた通りしかありませんけど」
 切羽つまった声を八重子はあげた。
「そうだな、ふた通りだな。それでいったい恭子さんには、どっちを勧めたほうがいいんだろうな。俺にはさっぱりわからんが、八重さんはどっちのほうが」
 おろおろ声をあげる麟太郎に、
「私にもわかりませんよ、そんなこと。ただひとついえることは、大先生には恭子さんの味方になってほしい、どんな状況になっても恭子さんの側についてほしい。それだけは守ってほしいんです」
 声は潜めているものの、叫ぶような言葉を八重子は麟太郎にぶつけた。
「それはもちろん、そうだ。俺はどんな状況になっても恭子さんの側だ。それはきちんとここで約束するよ」
「ありがとうございます」
 八重子は深く頭を下げ、
「女にとって堕胎は辛いものです。自分の身が砕けちるほど悲しいことです。辛くて辛くて、悲しくて悲しくて。よほどの事情がない限り、子供を堕(お)ろすということは」
 洟(はな)をすすりながら八重子はいった。
 八重子は泣いていた。
 声を出さずに号泣していた。
「八重さん、ひょっとして、あんた」
 掠れた声を麟太郎は出した。
「はい。私も一度だけ、子供を堕ろしたことが。どうしても産むことのできない事情があって。でも、どんな事情があろうと、あれは。いえ、やっぱり産んではいけないときも。わかりません。何がよくて何が悪いのか、私にはわかりません」
 八重子は何度も首を振った。
 この診療所の主ともいえる八重子にも、そんな時代があったのだ。そして八重子は今でもそれを、引きずっているのだ。
「八重さん、まず落ちつこう。俺たちが取り乱していてもしようがねえ。ここは落ちついて恭子さんを迎えいれよう。あるいは俺たちの取りこし苦労かもしれねえし」
「そうですね。私たちが落ちつかないと、恭子さん自身がパニックに陥ってしまいますからね」
 宥(なだ)めるようにいう麟太郎の言葉に八重子は素直に従って、急いで涙をふく。ポケットからコンパクトを取り出し、麟太郎に背を向けて顔を整える。
「じゃあ、次の患者さん入れますよ。急いですませて、きちんと恭子さんと向きあいましょう」
 八重子は自分に発破をかけるようにいい、
「それから大先生、今日はためらいなど見せずに訊かなければいけないことは、はっきり訊いてくださいよ。優柔不断は駄目ですよ。残りの時間は限られてますからね」
 凛とした声をあげた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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