よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第二話(後編) 女を見たら・後

池永 陽You ikenaga

 麻世(まよ)の機嫌が悪い。
 夕食時にまた潤一(じゅんいち)がやってきたので、今日診療所を訪れた恭子(きょうこ)との一部始終を麟太郎(りんたろう)は話して聞かせた。麻世は台所で料理をつくりながらその話を聞いていたらしく、それから機嫌が悪くなって無口になった。
「いったいどうしたらいいのか、俺にもさっぱり見当がつかなくってよ」
 溜息をつきながら麟太郎がいうと、
「それは難しいな。方法は二つしかないんだけど、どっちを選んだとしても誰かが傷つくことになる」
 潤一は宙を睨(にら)みつける。
「人命を守る医者の立場として堕(お)ろしたほうがいいとは、口が裂けてもいえることじゃねえしよ。それに横井(よこい)さんの出方次第では、後の展開が大きく違ってくるしな」
 と麟太郎が口にしたところで今夜のメイン料理を麻世が運んできた。どんと荒っぽい仕草で皿がテーブルに置かれた。むろん麻世は一言も口を開かない。
「おう、これは久々に、まともな食い物にありつけそうだな」
 麟太郎が軽口を飛ばすが、麻世はその言葉にも反応しない。
 テーブルに置かれたのは、カレーライスだ。麻世の数少ないレパートリーのなかで、まあまあ、まっとうな味の出せる料理といえる。
 麻世は無言のまま台所に戻り、自分用の皿を持ってきてテーブルに置き、乱暴に腰をかける。
 じろりと麟太郎と潤一の顔を見て、
「食べるよ」
 ようやく一言だけ口にして、スプーンを手にした。
 今日の夕方、診療所で妊娠を指摘された恭子は横井とのこれまでを、ぽつりぽつりと麟太郎と八重子(やえこ)に語った。
 二人が最初に知りあったのは、恭子が偏頭痛でこの診療所にやってきた一年ほど前のこと。偶然、隣同士で待合室の古い長イスに座ったのが始まりだという。
 互いに顔は見知っていたのでごく普通に言葉を交したが、恭子の番になって立ちあがろうとしたとき、
「恭子さんはあの……今度はいつ、ここにきますか」
 おどおどした声でいって、横井はすがるような目を恭子に向けてきた。
「偏頭痛が治まればもうきませんが、また痛みが出てくれば、今日のように木曜日の午後の診察時間にくるつもりです。今のところ、木曜日がいちばん暇ですから」
 説明するようにこういうと、
「また痛みが出たらですか。そうですか、木曜日ですか」
 ちょっと落胆したように横井はいって、両肩を落した。
 幸いというか何というか、偏頭痛はその後治まり、恭子が再度診療所を訪れたのはそれから一カ月以上たってからだった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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