よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第二話(後編) 女を見たら・後

池永 陽You ikenaga

 待合室に入ると、いちばん奥の長イスに横井が座っていた。
「横井さん、またお会いしましたね、相変らずの胃痛ですか」
 屈託なく声をかけて隣に座ると、
「入り婿は何かと気苦労が多いですから、すぐに胃腸のほうに響いてきます……ですから毎週木曜日には必ずここへ」
 横井は一気にいってから、最後の言葉だけを恥ずかしそうにつけ加えた。
 毎週木曜日には必ずここへ……。
 この言葉に恭子の心のなかの何かが反応した。忘れていた何かが。そっと横井の顔を窺うと、やっぱりすがるような目をしていたが、そのなかに熱っぽいものが感じられた。横井は以前いった自分の言葉に合せて、あれから一カ月以上毎週木曜日にここへ……。
 ストーカーという言葉が脳裏に浮んだが、そんなものはすぐに消え去って心地よさだけがあとに残った。それから二人は急速に親しくなり、毎週木曜日には極力恭子も診療所に顔を出した。
 入り婿の横井は時間の融通がきかず、唯一やぶさか診療所の古ぼけた長イスが気兼ねなく二人が会って話ができる場所だった。横井は、ケータイも持たせてもらえないといっていた。
 二人は長イスに座って他愛のない話を交した。まるでひと昔前の中学生同士の逢い引きだった。やぶさか診療所の古ぼけた長イスは二人にとって正真正銘、初デートの場所だった。
 そんな状況がしばらくつづいた後、横井がこんなことをいった。冬の寒いさなかで雪が舞っており、待合室のなかも患者の数がまばらで、さすがにがらんとしていた。
 横井は周囲を見回してから、
「二十六年前に、恭子さんに出逢いたかった。そうすれば」
 低すぎるほどの声でこういった。
 最初は二十六年という中途半端な数字が、わからなかった。が、少し考えてみて、それが横井が入り婿になる前の年だということに気がついた。恭子はそのときまだ中学生くらいだったが、具体的すぎる数字ともいえた。それだけに重みがあるような気がした。
「でも、今からだって……」
 ぽつりと横井がいった。
 恭子の胸がざわっと騒いだ。
 実質的な告白だと思った。いや、ひょっとしたら、それ以上の意味も。
 むろん恭子にしたって、そんなことが容易に叶(かな)うとは思っていない。しかし、横井の熱い気持は伝わってきたような気がした。このとき、恭子はひと回りほど違う年の差も、相手が既婚者であることも忘れた。気にならなかった。素朴に嬉(うれ)しかった。
「私は恭子さんが大好きです。いや、愛しています。この言葉に嘘はありません」
 追い討ちをかけるような横井の言葉に、
「私も横井さんが好きです」
 思わず口走った。
「こんな甲斐性なしに、ありがとうございます。でも甲斐性なしであっても、人を好きになることは、人を愛することは」
 小さな声だが、きっぱりした調子で横井はいった。
 その夜、恭子と横井は結ばれた。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number