よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第二話(後編) 女を見たら・後

池永 陽You ikenaga

 横井は商店街の友人から相談事があって呼び出されたと妻の厚子にいって、家を出てきたという。
「そんな嘘をいって、あとでバレることになるんじゃ」
 という恭子の心配そうな声に、
「そいつとは口裏を合せて、とにかく今夜は外に飲みに行ってくれといってあるから。もちろん、私と一緒にということで」
 大きくうなずいて横井は、恭子の柔らかな体を抱きしめた。隣町のラブホテルだった。
 そんな状況がしばらくつづき、そして恭子は妊娠した。まだ横井にはそのことは話していないということだった。
「産婦人科にはまだ行ってません。市販の検査薬で何度も調べて、そのたびに陽性反応が出て、それで私」
 恭子は泣きながらこういった。
「それで、ここにきたか、ありがとうよ」
 麟太郎は優しく声をかけ、
「検査薬で何度も陽性反応が出ているのなら、妊娠はまず間違いねえだろうな。だから、恭子さんがまずやらなければいけないことは、きちんと専門医に診てもらうことだ」
 凛(りん)とした表情でいった。
「そして現在の赤ん坊の状態を、しっかり調べてもらうこと。この界隈(かいわい)じゃねえ専門医に紹介状を書くから、それを持って行けば親身になってくれるはずだ」
「はい、すみません」
 蚊の鳴くような声で恭子がいった。
「そして次にやることは横井さんに会って、この状況を話すことだ。といっても、あの男はケータイも持っていないから連絡を取るのも大変か。まったく、このご時世に何という生活を送ってるんだ」
 最後のほうは独り言のようにいい、
「来週の木曜日まで待つのも大変だから、会う日をきめたら俺に教えてくれ。俺のほうから笹屋に電話して、とにかくまず、ここにきてもらうようにするから」
 宥(なだ)めるようにいう麟太郎に、
「すみません、助かります。ありがとうございます」
 恭子は両手を合せた。
「この二つを迅速に行うことだな。その結果を踏まえて、後のことは考えようじゃないか。なあ、恭子さん」
 こうして麟太郎は話を締め括(くく)ろうとしたのだが、このとき恭子が慌てて口を開いた。
「あのう、もし横井さんがこのことを聞いて、それなら家を出て私と一緒になるといったら、どうしたらいいんでしょうか」
 いい辛(づら)そうに口にした。
 まったく考えていなかった。
 そういわれれば、そういう可能性がないとはいいきれない。
 目の前の妊娠という事実にとらわれて、そこまで気が回らなかった。「女を見たら、妊娠と思え」のときと同じ状態だ。しかし、優しさだけが取柄といった気弱な中年男が、そんな大それたまねをするなどとは到底――そう思いこんでいたのも事実だった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number