よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第二話(後編) 女を見たら・後

池永 陽You ikenaga

「そのときはそのときで、またじっくり考えましょう」
 こんなことしか、口から出てこなかった。ちらりと八重子のほうを見ると、そっぽを向いて天井を見つめていた。
 カレーライスの無言の食事が終った。
「さっきじいさんがいった、横井さんの出方次第という話なんだけど」
 麻世が乾いた声をあげた。
「もし、あの男が家を出て恭子さんと一緒になるようだったら、ぎりぎりセーフ。でも、一緒になるといったのは口先だけで、恭子さんに赤ちゃんを堕ろすことを迫るような態度をとったら」
 麻世は、ぷつんと言葉を切った。
「堕ろすことを迫ったら、どうなるんだ、麻世」
 麟太郎は思わず強い口調でいった。
「私があの男を、シメてやってもいい」
 とんでもないことを口にした。
「そんなことをしたら、麻世ちゃんは――」
 テーブルの上に潤一が身を乗り出した。
「そうだよ。私は警察につかまって大変なことになる。以前の私だったら躊躇(ちゅうちょ)せずに相手をぼこぼこにしたんだけど、今はそれができなくなって悔しい。悔しくて悔しくてたまらない気持だ」
 泣き出しそうな口調でいった。
「麻世、それはお前が成長した証拠だ。まっとうに生きるってことは、悔しさや悲しさを背負うということなんだ。世の中にはどうしようもできないことがあるってことに、気がついた証(あか)しだ」
 噛(か)んで含めるように麟太郎はいう。
「じゃあ、そんな場合は黙って泣き寝入りするのか。それとも、あの男の奥さんのところに行って何もかも、ぶちまければいいっていうのか。それでいいっていうのなら、恭子さんの代りに私が行ってもいいけど」
「それは駄目だ。恭子さんがそれをするっていうのなら止める術はないが、お前がやってもいいっていうことじゃねえ」
 そういいながら、なぜ麻世はこの件にこれほど真剣になるのか麟太郎には不思議だった。そんな思いで麻世の顔を凝視すると、目の奥が潤んでいた。麻世は歯を食いしばって涙を流さずに泣いているのだ。
「麻世ちゃん、ひょっとして泣いてるのか」
 また潤一が、余計なことを口にした。
「泣いてなんかいねえよ。男は人前で涙なんか流さねえよ」
 男のような口調でやり返して、潤一をじろりと睨んだ。
 ようやく思い当たった。
 麻世は恭子の境遇に自分の過去を重ねているのだ。あの梅村(うめむら)との悲惨な出来事を。あのあと麻世は自分の腹のなかに梅村の子供が、と恐れ戦(おのの)いた時期があったはずなのだ。幸いそれだけは回避できたが、心の奥にはそのときの恐怖と不安がいまだに……。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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