よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第二話(後編) 女を見たら・後

池永 陽You ikenaga

 恭子が診察室に姿を見せたのは、それから四十分ほどしてからだった。丁寧に頭を下げて診察用のイスに座り、先日の礼をいってから、
「前回診てもらった次の日に、紹介していただいた産婦人科の医院に行って詳しく検査をしてもらってきました。やっぱり四カ月目に入っているということです」
 と報告して母子共に健康であるという結果が出たと、その様子を詳細に恭子は麟太郎に話した。
「このままいけば、元気な赤ちゃんが生まれるはずだと先生が……」
 最後に恭子は、こんな言葉を掠(かす)れた声でつけ加えた。
「そうか、それはよかった。とりあえず、お腹のなかの赤ちゃんの様子だけは落着ということになるな」
 ほっとしたようにいう麟太郎に、
「妙なもんですね、大先生」
 恭子は、ほんの少し笑みを浮べた。
「検査薬で陽性反応が出ていたころは、不安と苛立(いらだ)ちが体全部をおおっていたのに、専門医の先生に実際に診てもらって、母子共に健康ですと伝えられたとたん、それが全部消え去って平穏な気持になったんです。それが私にはとても不思議で」
「具体的な診察を受けて恭子さんは現実をきちんと把握し、素直にそれを受け入れたんだよ。つまり――」
 麟太郎は一呼吸入れ、
「お母さんの気持になれたんだと、俺は思うよ」
 しみじみとした口調でいった。
「そうかもしれませんね。他のことは何も考えず、お腹のなかの赤ちゃんのことだけを考えれば、何となく幸せというか穏やかというか、そんな気持になれることは確かですから」
 恭子もしみじみとした口調で答えると、
「穏やかな気持で、落ちついてもらっていては困りますよ。何といっても時間がないんですから。人工妊娠中絶の手術が可能なのは、二十二週未満までですから。それ以上になると、よほどの事情がない限り強制流産になって罪に問われることもあります。本当にもう、時間がないんです」
 傍らに立っている八重子が、急(せ)かせるような口調でいった。
「わかっています。ですから今日は大先生にあの人の家に電話を入れてもらって、会う段取りをしてもらおうと思ってきたんです。できれば明日、会えるように」
 はっきりした口調でいった。
「そうか明日か、それはいい。早いにこしたことはないからな。じゃあ、あとで電話を入れておくよ。恭子さんから何もかも話は聞いてるといえば、横井さんもこないわけにはいかねえだろうからな。それで、どこに呼び出せばいいのかな」
 麟太郎はできる限り優しく訊(き)く。
「できればここで――迷惑でなければ、ここの待合室の長イスで話がしたいんです。全部の診察が終ったあとで」
「迷惑なんぞ、何にもねえよ。というより、ここで話し合いをしてくれれば、いざというときには恭子さんの味方になることもできるから大賛成だ。むろん、呼ばれるまで座は外しているから心配はいらねえ。思う存分、話しあえばいい」
 麟太郎が鷹揚にうなずくと、
「あの、大先生に差障りがなければ、同席してもらって立会人というか証人というか――そのほうが双方感情的にならずに、話ができそうな気がして」
 遠慮ぎみに恭子はいった。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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