よみもの・連載

下町やぶさか診療所2

第二話(後編) 女を見たら・後

池永 陽You ikenaga

「ドアを少し開けて、耳を澄ますのか」
 情けない声を麟太郎は出す。
「もちろん」
 と八重子が大きくうなずいたとき、恭子がやってきた。診察室に入ってみんなに挨拶をし、麟太郎に深々と頭を下げた。
「面倒なお願いをして、どうもすみません」
 顔をあげると表情が穏やかだった。
「すっかり、お母さんの顔になってるな」
 麟太郎が言葉をかけると、
「えっ、そうですか」
 ほんの少しだったが、恭子は笑みを浮べた。
 恭子は腹を括った。
 麟太郎はそう感じた。これなら大丈夫だ。どんな結果になっても決して恭子は取り乱すことはない。そして、必ずいい答えを出してくれるはずだ。
 時計を見ると五時二十分。
「じゃあ、行ってくるからよ」
 麟太郎は呟(つぶや)くようにいって、恭子と二人で診察室を出て待合室へ。いちばん奥の長イスに恭子を座らせ、麟太郎は少し離れた席に腰をおろす。
 十分ほどして横井が顔を見せた。
 麟太郎の顔を見て、ぎょっとした表情を浮べた。
「大先生も、ご一緒ということなんですか」
 恐る恐る訊いてきた。
「大先生は、立会人というか証人というか。そういう存在だから気にしないで、思った通りのことを話せばいいから」
 恭子がこう説明して、横井を自分の隣に座らせる。
「立会人とか証人とかって……いったい何があったっていうんだ、恭子ちゃん」
 どこといって特徴のない、おっとりとした顔に怯(おび)えの色が浮ぶ。恭子の目が、その顔を凝視した。
「子供ができました。もう、四カ月です」
 はっきりいった。
 横井の顔がすうっと青くなった。
 無言の時が流れた。
「堕ろすんだろうね」
 喉につまった声を横井が出した。
「堕ろしたほうがいいの?」
 低い声だった。
「産んだって誰の得にもならないから。私にとっても恭子ちゃんにとっても。だからここはやっぱり、堕ろしたほうが」
 上ずった声でいった。
「やはり、そういうことですか」
 恭子は独り言のようにいい、
「私は産むつもりでいるわ」
 ぶつけるような声を出した。

プロフィール

池永 陽(いけなが よう) 1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。
98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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